古内東子「誰より好きなのに」は、1996年にリリースされた曲で、誰よりも近くにいながら、その気持ちをそのまま言葉にできなかった時間を思い出させます。恋人でもなく、ただの知り合いでもない。友人という立場に留まりながら、心の中では誰より強く相手を想っている。そういう中途半端な位置に自分を置いたまま、時間だけが過ぎていく感覚が、この曲には静かに流れています。若い頃は、好きだと伝えることが一番大事だと思っていました。けれど実際には、伝えないことを選ぶ場面のほうが多かったように思います。関係を壊したくない、今のままの距離を失いたくない、そう考えて言葉を飲み込むことは、弱さというより、ひとつの選び方だったのかもしれません。この曲を聴くと、当時は説明できなかったその選び方に、少しだけ形を与えてもらえる気がします。派手に盛り上がる曲ではなく、心の奥にしまい込んだままの気持ちに、そっと寄り添ってくる曲です。1990年代半ば、東京で働き始めたばかりの頃にこの曲がラジオから流れていた記憶があります。当時はまだ、誰かを好きになることと、その気持ちを伝えることの間に、こんなにも距離があるとは考えていませんでした。歳月を経て聴き直すと、伝えなかった理由の一つひとつに、当時の自分では気づけなかった意味が見えてきます。
言えなかった気持ちの居場所
誰かを好きになったとき、その気持ちをすぐに言葉にできる人ばかりではありません。特に、相手との今の関係が心地よく、それを崩したくないと感じているときほど、気持ちは言葉になる前に立ち止まります。「誰より好きなのに」という言葉には、好きだという確信と、それでも言えないという現実が、同じ強さで同居しています。若い頃の自分にも、そういう気持ちがいくつかありました。仕事の合間に会う相手、同じ場にいるのが自然だった相手、ただの知り合いと呼ぶには近すぎて、恋人と呼ぶには遠すぎる相手。その関係を大事にしていたからこそ、気持ちを言葉にすることが、かえって怖くなることがありました。伝えてしまえば、今の距離のまま隣にいられなくなるかもしれない。そう思うと、黙っていることのほうが、その人のそばにいられる唯一の方法のように感じられたのです。
言えなかった気持ちは、消えてなくなるわけではありません。むしろ、口に出さなかった分だけ、心の中で丁寧に育っていくところがあります。誰にも言わなかった分、その気持ちは自分だけのものになり、時間が経ってもふとした瞬間によみがえってきます。当時は、伝えられない自分を情けなく思うこともありました。けれど今振り返ると、伝えないという選択にも、その人なりの誠実さがあったように思います。関係を壊してまで自分の気持ちを優先しなかったこと、相手の今の生活や立場を考えて言葉を飲み込んだこと。それは臆病さであると同時に、相手を大切に思う気持ちの表れでもありました。古内東子の歌声は、そうした矛盾した感情を、どちらか一方に決めつけずに歌います。だからこの曲を聴くと、言えなかった自分を責める気持ちが、少しずつ和らいでいくのです。誰かに打ち明けられなかった気持ちは、日記の片隅や、返さなかったメールの下書きや、送らなかった年賀状の文面の中に、今も静かに残っています。それらは失われた言葉ではなく、当時の自分がぎりぎりのところで守っていた場所だったのだと、今なら思えます。
友人でいることを選んだ時間
「誰より好きなのに」が描く関係は、友人でも恋人でもない、あいまいな場所にあります。好きだという気持ちを持ちながら、その関係を友人という枠の中に留めておく。それは、多くの場合、自分から選んだことでもありました。恋人になれば、いつか終わりが来るかもしれない。友人のままなら、少なくとも今の関係は続けられる。そう考えて、あえて一歩を踏み出さなかった時間が、自分にもあったように思います。東京で働いていた頃は特に、生活の速度が速く、関係をはっきりさせるための時間や余裕を持てないことが多くありました。仕事の予定に追われ、次に会える日もわからないまま、気持ちだけが宙に浮いたような状態が続く。友人という立場は、そのあいまいさをひとまず受け止めてくれる、都合のいい場所でもありました。休日に会う約束をするときも、あくまで「友達だから」という言い訳を自分に用意していたことを覚えています。その言い訳があったからこそ、断られる怖さを感じずに連絡できたのかもしれません。
けれど、友人でいることを選び続けるということは、自分の気持ちに区切りをつけないまま生きるということでもあります。相手の近況を人づてに聞いたり、何気ない連絡に一喜一憂したり、はっきりしない関係のまま季節が変わっていく。そのもどかしさは、恋愛が実らないことよりも、むしろ実らせようとしなかった自分自身に向けられていたのかもしれません。この曲を聴くと、そうした自分の優柔不断さや臆病さが、決して特別なものではなく、多くの人が通ってきた道なのだと感じさせてくれます。誰かのそばにいたいという気持ちと、関係を壊すことへの恐れは、ときに同じ強さで心の中にあります。友人でいることを選んだ時間は、遠回りだったのかもしれませんが、それでも、その人のそばで過ごした時間そのものに意味がなかったとは思いません。あいまいなままの関係を、あいまいなまま大切にできた時期が、確かにあったのです。今なら、白黒つけないことも一つの誠実さだったと言えます。あの頃はどちらつかずの自分を弱いと感じていましたが、関係を無理に定義しなかったからこそ、長く隣にいられた時間もあったはずです。答えを急がなかった分だけ、記憶の中でその時間は今も柔らかい形のまま残っています。
今になって聴こえるもの
磐田で家や土地、空き家、相続の相談を受ける仕事をしていると、言えなかった気持ちが残された家に出会うことがあります。長く一緒に暮らした家族の中にも、言葉にしないまま過ぎていった感情があり、それは家の間取りや、庭の手入れの跡、残された荷物の中に、静かに刻まれています。「誰より好きなのに」を今聴くと、恋愛の歌でありながら、人がどれだけ大切な気持ちを言葉にしないまま生きているかを思い出させる曲としても響きます。家族の間でも、仲間の間でも、言わなかったことのほうが多いという人は少なくありません。それは失敗ではなく、その人なりの向き合い方だったのだと、今の仕事を通じて感じるようになりました。片付けを手伝う中で見つかる古い手紙や写真も、多くは差出人や日付だけが残り、肝心の気持ちの部分は語られないままです。それでも、そこに置かれていたという事実そのものが、言葉にならなかった想いの証だと感じます。
東京で働いていた頃に感じた、言えなかった気持ちのもどかしさは、今の磐田での暮らしの中でも、形を変えてよみがえってきます。相続の相談で家族の話を聞くとき、そこには必ず、言わなかった感謝や、伝えられなかった謝罪や、最後まで口にできなかった思いが存在します。この曲を聴きながらそうした場面を思い出すと、言葉にすることだけが誠実さではないのだと、改めて思わされます。黙っていたことにも、その人なりの理由と優しさがある。若い頃はそれを弱さだと感じていましたが、今はむしろ、相手を思うがゆえの選択だったのだと受け止められるようになりました。
「誰より好きなのに」というタイトルは、伝えられなかったことへの後悔だけでなく、それでも大切に想い続けた時間そのものを肯定しているようにも聞こえます。ATAWI MUSICでこの曲を取り上げるのは、恋愛の記憶を懐かしむためだけではありません。言葉にしなかった気持ちにも、確かな居場所があったこと。そして、その気持ちを抱えたまま今を生きている自分自身を、もう一度丁寧に見つめ直すためです。東京で言えなかったこと、磐田で今向き合っている家族の時間、そのどちらにも、誰より大切に想っていたのに言えなかった何かが、静かに残っています。空き家になった実家を訪ねるたび、そこに住んでいた人が誰かに向けて持っていたはずの、口にされなかった気持ちを思う。この曲は、そうした沈黙のひとつひとつに、耳を澄ませるための時間をくれます。
