ページ作成日: 2026年7月5日
元にしたYouTubeリンク: https://youtu.be/Ae6gQmhaMn4
確認した動画: ゲスの極み乙女「私以外私じゃないの」Music Video(ゲスの極み乙女 Official YouTube Channel)

「私以外私じゃないの」は、ゲスの極み乙女。の2枚目のシングルとして2015年4月22日に発売された、川谷絵音の全作詞・作曲による一曲である[2]。アルバム『両成敗』にも収録されている[2]。コカ・コーラが自社ボトルの誕生100周年を記念して展開した「ネームボトルキャンペーン」のCMソングとして起用されたことで、バンドの名前を一気に全国区へ押し上げた曲だと伝えられている[1]。音楽ナタリーの報道によれば、キャンペーンは自分や友人の名前が入ったボトルを見つけ、間柄を示す記号でシェアするという企画で、テレビCMは映画監督の吉田大八がディレクションを担当し、「バイク」「バンド」「ボルダリング」各15秒の3篇として全国で放映された[1]。ボトルに自分の名前を刻むという企画意図と、「私以外私じゃないの」という曲名がまっすぐに重なっていたことが、この起用の芯にあったのだろう。チャートの記録としては、Billboard Japan Hot 100で週間3位、オリコンで11位に達したと伝えられ[2]、タイアップの後押しを受けた曲としては手堅い、それでいて曲そのものの強さも裏づける成績を残している。タイトルだけを見れば当たり前のことを言っているようでいて、自分の代わりはどこにもいないという事実は、孤独の言葉であり、同時に肯定の言葉でもある。いろいろあった人生を振り返るとき、この曲が静かに置いていく本質は、軽快なサウンドの奥から不意に刺さってくる。

大石セレクション:歌詞がいい ★★★★★

  • 曲がいい:★★★★☆
  • 歌詞がいい:★★★★★
  • MVがいい:★★★☆☆

選定理由:テンションコードを軸にした都会的な浮遊感や、拍のアタマをずらすリフレインの中毒性など、曲としての作り込みも十分に高い[3]。しかし、この曲が長く記憶に残る一番の理由は、やはり「私以外私じゃないの」という一節そのものにあると思う。当たり前すぎるほど当たり前の事実を、あえて言葉にして提示する潔さ。聴く人の年齢や状況によって、孤独の言葉にも、肯定の言葉にも転じるその余白の広さ。CMソングとして街に流れていた頃とはまるで違う重みで、今は自分の耳に届いてくる。曲やMVの完成度も高い一曲だが、人生の節目で何度も聴き返したくなる強さという点で、主視点は歌詞がいいに置いた。

テンションコードに隠された、都会的な浮遊感

この曲を音として聴き返すと、Aメロの控えめな入りから、サビに向けて少しずつ熱量が上がっていく構成になっていると聴こえる。Real Soundが川谷絵音の作曲術を分析した記事によれば、Aメロは「Cm7(9)→E♭maj7(9)→Fmaj7→G7(#9)→G7(♭9)」という進行を繰り返しながら進むという[3]。同じコード進行を土台にしながらも、そこに乗るメロディを容易に繰り返させないという書き方が特徴だと、同記事は指摘している[3]。専門的な理屈は抜きにしても、サビに差しかかる瞬間に景色が変わるような感覚は、聴いていて素直に伝わってくる。同じ記事では、メジャー7thや6th、9thといったテンションノートを多用することで、コード進行そのものは比較的オーソドックスでありながら、都会的で洗練された響きを作り出していると分析されていた[3]。ファルセットと地声を切り替えながら、拍の頭を意図的にずらすように歌うリフレインは、中毒性を倍増させる技法としてこの曲でも使われていると同記事は指摘しており[3]、実際に聴いていても、耳に残る引っかかりのようなものを強く感じる。歌詞を細かく引くことは控えるが、繰り返し歌われるフレーズの語感とリズムのずれが、この曲を一度聴いたら忘れられないものにしているのだと思う。イントロからAメロにかけての抑えた音数、サビでコーラスとファルセットが重なって厚みを増す構成は、聴き手を置き去りにしない工夫として随所に感じられる。凝ったアレンジを土台に置きながら、ポップな輪郭を保つという、相反する要求を同時に満たそうとした跡がこの曲には残っている。

ゲスの極み乙女。というバンド名の持つ挑発的な響きと、実際にこの曲が歌っている内容の率直さの落差も、このバンドらしい持ち味だと感じている。軽薄に見える名前の奥に、存外まっすぐな自己肯定が置かれている。そのギャップこそが、CMという短い接触の中でも聴いた人の記憶に残るフレーズを持ち得た理由のひとつではないかと思う。また、Real Soundの記事は、川谷絵音がindigo la Endや他アーティストへの提供曲(SMAP「アマノジャク」など)でも同様の作曲技法を使っていることに触れており[3]、テンションコードを軸にした洗練と、耳に残るポップさを両立させる書き方は、このバンド以外の仕事でも一貫して現れる作家性であることがうかがえる。「私以外私じゃないの」はその作家性が、もっとも広い層に届いた瞬間の一つだったのだろう。同記事が指摘する分数コードが生む浮遊感は[3]、実際に聴くと、地に足がついていないというより、あえて足場を軽くすることでリズムの中毒性を際立たせているように聴こえる。しっかりした骨格の上に、あえて不安定さを乗せる。そのバランス感覚が、この曲を単なるタイアップソング以上のものにしているのではないかと思う。

東京で見失いかけた、自分という存在

東京という街には、無数の人がいて、無数の生き方がある。かつて勤めていた会社で、同期入社の中に突出して評価される人がいて、自分の仕事ぶりが急に色褪せて見えた時期があった。会議の場で自分の発言だけが的外れに感じられ、周りを見渡せば自分よりうまくいっているように見える人ばかりが目についてしまう。そうした環境の中で働いていると、自分という存在が急に頼りなく感じられる瞬間があった。

いろいろあった、という一言には、うまくいかなかった仕事、こじれた人間関係、思い通りにならなかった選択のすべてが含まれている。それでも、その一つひとつを経験したのは他の誰でもなく自分自身であり、そこから学んだこと、感じたことは、自分にしか持ち得ないものだ。「私以外私じゃないの」というシンプルな言葉は、比較の中で消耗していた自分に、立ち返るべき場所を教えてくれた。都会での競争的な空気は、時に人を追い詰める。しかし本当に大切なのは、他人の人生の物差しで自分を測ることではなく、自分自身の物差しで、自分の歩みを認めることだと、今になって思う。

当時の自分は、この曲をただの明るいCMソングとしてしか聴いていなかった気がする。忙しい日々の中で、耳に流れてくる音を意識して聴く余裕などなかった。ところが数年後、仕事のやり方を変え、住む場所を変え、生活の速度そのものを変えてから、ふとこの曲が頭の中で鳴ることがあった。あのとき聴き流していたはずのフレーズが、輪郭を持って戻ってくる。人は同じ曲を、置かれている状況によってまったく違うものとして受け取り直す。「私以外私じゃないの」という言葉も、都会で消耗していたころに聞くのと、そこから抜け出したあとに聞くのとでは、届き方がまるで違っていた。曲そのものは変わっていないのに、聴く側の耳が変わることで、意味が更新されていく。この曲を長く手元に置いておきたくなる理由は、そうした聴き直しに耐える強度を持っているからだと思う。転職や独立、あるいは土地を離れて戻るというような、生活の節目に差しかかった人ほど、この曲の据わりを強く感じ取るのではないかと想像する。誰かの成功や失敗と自分を照らし合わせて一喜一憂する時期を経たあとでなければ、私以外私じゃない、という言葉の重さは、案外実感として響いてこないものかもしれない。

ネームボトルという企画と、能楽堂で撮られた公式MV

ボトルに自分の名前を刻むというコカ・コーラのキャンペーンは、単なる販促の仕掛けというより、「あなたはあなたでしかない」という事実を、日常の中でふと思い出させる企画だったのではないかと思う。CMソングとして街中で何度も耳にするうち、曲の主題である「私以外私じゃないの」という一文は、いつのまにか広告のためだけの言葉ではなく、聴く側それぞれの生活に染み込んでいった。企業のメッセージと楽曲のメッセージが対等に共鳴していたからこそ、この曲は単発のタイアップ曲で終わらず、長く歌い継がれる一曲になったのだと思う。

テレビCMのディレクションを手がけたのは、映画『桐島、部活やめるってよ』で知られる吉田大八監督だったと伝えられている[1]。バイク、バンド、ボルダリングという三つの異なる場面を描いた各15秒の構成には[1]、それぞれの登場人物が、それぞれのやり方で自分の名前を刻んでいくという共通の主題が流れていたはずだ。乗り物も楽器も岩壁も、道具はまったく違う。それでも、そこに映る人物たちが求めているものは同じで、自分がここにいたという事実を、何らかの形で残しておきたいという願いだったのではないか。名前を刻むという行為は、突き詰めれば、自分の存在を自分自身に対して証明する行為でもある。誰かに見せるためではなく、自分が納得するために名前を刻む。その静かな意志と、「私以外私じゃないの」というタイトルの持つ覚悟は、驚くほど自然に重なっていたのだと思う。

一方、楽曲そのものの公式ミュージックビデオは、CMとは別に中村浩紀監督の手で制作され、2015年4月8日に解禁された[4]。舞台に選ばれたのは能楽堂という、日本の伝統的な空間である[4]。メンバーはピンクの衣装をまとってストイックに演奏を続け、そこに歌舞伎メイクを施した謎の女性が共演するという、一見脈絡のない組み合わせが展開される[4]。この女性はサポートコーラスの佐々木みおだと伝えられている[4]。中村監督は「突飛な表現も違和感無く自分達の世界観に持って行ってしまう」とバンドを評しており[4]、実際に映像を見ても、能楽堂という荘厳な空間とポップな楽曲、歌舞伎メイクという異質な要素が、不思議と衝突せずに一つの画面に収まっている。川谷絵音がこの曲に込めた「どんな状況においても、自分以外自分ではない」という主題を、あえて極端な形で映像化したものだと紹介されており[4]、本人も「何回も見たくなるMV」と語っていたという[4]。ただし、MV単体として見ると、能楽堂という舞台の強さと歌舞伎メイクのインパクトが先に立ち、曲の歌詞が持つ内省的な余白までを映像がすべて拾いきっているとは言いがたい。シュールな画作りとしての完成度は高い一方、曲や歌詞の持つ普遍的な強さと並べると、主視点として選ぶにはもう一歩の物語性がほしいというのが正直な印象である。

当時、この曲を街のあちこちで耳にしながら、キャンペーンの企画そのものよりも、「私以外私じゃないの」という一節の据わりの良さに気を取られていた記憶がある。派手なコピーではなく、当たり前すぎるほど当たり前の事実を、あえてタイトルとして掲げる。その潔さが、数あるCMソングの中でもこの曲を記憶に残る一曲にした理由の一つだったのだろう。

磐田で、それぞれの人生を引き受ける

磐田に戻り、家や土地、相続の相談を受ける仕事をする中で、この曲の言葉がまた違う重みを持つようになった。相談に来られる方々は、それぞれ違う家族構成、違う事情、違う後悔や願いを抱えている。誰か他の家族のケースと比べて「うちはどうすればいいのか」と悩む方も少なくない。けれど、他の家の答えが、そのまま自分の家の答えになるとは限らない。

「私以外私じゃないの」という言葉は、家族や土地の問題にもそのまま当てはまる。他の兄弟がどうしたか、他の家がどう手続きしたか。それらは参考にはなっても、答えそのものではない。それぞれの家族には、それぞれの歴史と事情があり、その中で最善を選び取っていくしかない。いろいろあった人生を歩んできた方々と向き合うたびに、この曲の言葉を思い出す。過去に何があっても、これからどう生きるかを決めるのは、他の誰でもなく本人だ。ATAWI MUSICにこの曲を置くのは、それぞれの人生を、それぞれの立場で、自分自身の手で引き受けることの大切さを思い出すためだ。

実家の片づけや相続の相談に立ち会っていると、亡くなった方が残した写真や手紙の中に、その人だけの人生の記録が詰まっていることに気づかされる。誰かと比べようのない、その人だけが歩んだ道筋がそこにある。家族であっても、その道のりのすべてを知っているわけではない。だからこそ、残された家族が「あの人だったらどうしただろう」と迷うとき、答えは他人の家の事例の中にはなく、その人自身の生き方の中にしかない。それは、生きている人間にとっても同じことだ。私以外私じゃない、という当たり前の言葉を、あらためて自分の仕事の中で噛みしめる。都会での競争にさらされていた頃の自分も、磐田で家や土地と向き合っている今の自分も、地続きの同じ一人であり、その歩みを比べる相手はどこにもいない。この曲を何度も聴き返すのは、そのことを忘れないためなのかもしれない。

参考リンク

「私以外私じゃないの」という言葉のように、音楽には、その人だけが歩んできた時間が残っています。家や土地にもまた、誰かの暮らしや記憶が残っています。

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書いた人

大石浩之。静岡県磐田市で、介護と不動産の仕事をしています。 若い頃に東京で過ごした時間、仕事の中で見てきた家族や街の記憶、 そして今暮らす磐田で感じることを、音楽をきっかけに書いています。

音楽は、過去の自分に会いに行くための入口です。 家や土地もまた、誰かの記憶が残る場所だと思っています。