「Genie」日本語版は、2010年9月8日にリリースされた少女時代の日本デビューシングルである[1]。その少し前、同年8月25日には東京・有明コロシアムでプレミアムショーケースライブが行われ、応募が殺到した結果3回公演に急遽拡大され、合計で約2万2000人を動員したと音楽ナタリーは伝えている[2]。当時、東京で働いていた自分はその熱気を直接見たわけではない。ただ、街の電気店の店頭や、同僚が休憩時間に見せてくれた携帯電話の画面越しに、この曲の存在を知った覚えがある。誰かに教えられて初めて気づく音楽というものがあって、「Genie」は自分にとってそういう曲だった。当時はまだ、K-POPという言葉自体が、今ほど日常語として定着していなかったように思う。ラジオでもテレビでも、まだ特別な枠として紹介されることが多く、街中で自然に流れているという状況自体が、ある種の事件だった。今振り返ると、あの数か月の間に、自分の周りの音楽の話題は明らかに変わっていった。
もとは韓国版として2009年6月22日に発表された楽曲で、ノルウェーの制作チームDsign Music(Anne Judith Wik、Robin Jenssen、Ronny Svendsen、Nermin Harambašić)とデンマークの作曲家Fridolin Nordsøが原曲を手がけ、Yoo Young-jinが日本語版の作曲・プロデュースにも名を連ねていると伝えられている[1]。海を渡ってきた曲がさらに日本語という別の言葉をまとって届く、その二重の翻訳の過程を思うと、一曲の背後にどれほど多くの手が入っているかに、あらためて驚かされる。北欧で生まれた原型が韓国で形を整えられ、そこからさらに日本語という三つ目の言語をまとって自分の耳まで届いた。国境をまたいで人の手から手へ渡っていく過程を想像すると、当時は気づかなかった距離の長さに、あらためて驚かされる。日本語詞は中村彼方が担当し、本人が後年X(旧Twitter)で語ったところによれば、韓国語版のMVを初めて見たとき鳥肌が立ち、どうしても勝ち取りたいコンペだったという[6]。既にメロディが決まっている曲に、意味を大きく変えずに、日本語として自然に、しかも韓国語ネイティブではない歌い手にも歌いやすい言葉を当てはめる作業だったと、その舞台裏を伝えるインタビューは紹介している[5]。この記事では歌詞そのものを丸ごと引用することはしないが、その裏側にあった言葉選びの緊張感だけは、覚えておきたいと思う。誰かが夜な夜な言葉の型を組み替えていたからこそ、自分たちの耳には自然な日本語のポップソングとして届いていたのだと考えると、当時の何気ない視聴の記憶が、少し違う重みを持って戻ってくる。
会社員だった頃の、遠い曲
あの頃、東京の会社で働いていた自分にとって、K-POPはまだ少し外側にあるものだった。テレビの歌番組は変わらず日本のアイドルやバンドを中心に回っていて、韓国の音楽はどこか別の流通経路を通って届く印象があった。ところが「Genie」のあたりから、その距離感が変わり始めたように感じる。日本語版はオリコンシングルチャートで最高4位を記録したと伝えられている[1][3]。数字を細かく覚えているわけではないが、街で流れる頻度が明らかに増えたことは、体感として残っている。
仕事帰りに聴いた曲というのは、不思議と記憶の場所が決まっている。「Genie」は、自分の中では満員電車でも、居酒屋でもなく、量販店の店頭に置かれたテレビの前で鳴っていた曲として残っている。音楽を選んで聴いていたわけではなく、向こうから届いてきた。当時はまだ、それが後々自分の生活のどの部分に残るのか分からなかった。今振り返ると、あの頃の東京は、まだ知らない音が街に流れ込んでくることに、ある種の余裕を持っていた時代だったのかもしれない。忙しく働きながらも、耳の端でどこか新しいものを探していた。景気の話や仕事の話ばかりしていたはずの同僚たちが、ふとした瞬間に少女時代の話をし始めることがあって、それが自分にとっては、時代の輪郭が少しずつ動いている証拠のように思えた。
訓練された完成度と、こちらの戸惑い
この曲を音として聴き直すと、ダンストラックとしての作りの硬さが耳に残る。派手すぎない範囲でビートを反復させながら、九人の声を重ねて厚みを作っている。歌唱の一人一人の個性を消さずに、全体としては一つの機械のように精度高く動く。そのつくり方に、日本のグループ音楽とは違う訓練の密度を感じたことを覚えている。少女時代はダンスとライブの表現力を段階的に高めながらK-POPの枠を広げてきたグループだとRealSoundの分析記事は評しており、その手の込んだ振付とハンドムーブが当時の日本のアイドル表現に新しい引き出しをもたらしたと指摘されている[7]。素人の耳にも、その積み上げは伝わってきた。低く抑えたビートの上で声が折り重なる構成は、聴いていて力任せに押し切る音ではなく、計算されたテンポの中で緊張感を保っているように聴こえる。サビに向かって音数が増えていく組み立て方も、一度聴いただけで印象に残るように設計されているように感じられる。
正直に言えば、最初にこの曲の映像を見たときは、少し戸惑いがあった。歌がうまい、ダンスが揃っている、という以上に、映像全体の「作り込み」の密度が違う。日本語版の公式MVは、少年がランプを見つけたことをきっかけに、少女時代が願いを叶える存在として現れるという設定で撮影されている[1]。衣装、照明、カメラワーク、どれも一つの製品として磨き上げられている感じがした。日本の音楽でも完成度の高い作品はいくらでもあったが、それとは違う種類の緻密さだった。振付の隊列の変化や、カメラが切り替わるタイミングまでが、曲の展開と揃えられているように見え、映像と音が別々に作られたのではなく、最初から一体のものとして設計されていたのだろうと感じさせる。仕事の現場でも、丁寧に作り込まれたものと、勢いだけで押し切ったものの違いは、後になって効いてくる。この曲を聴くたびに、そのことをどこかで思い出す。細部への手間を惜しまないことが、結局はいちばん遠くまで届く力になるのだと、当時の自分はまだうまく言葉にできていなかったが、今ならそう言える。
この日本版MVで印象に残るのは、ランプという小道具を軸にした、いわば童話的な設定の軽さと、九人分の衣装やセットにかけられている手間の重さとの落差である。ファンタジーめいた導入部を用意しながらも、ダンスシーンに切り替わった瞬間、映像は一気に硬質なプロダクションへと姿を変える。願いを叶える存在という物語装置は、突き詰めれば曲の意味を大きく拡張するものではないが、映像として少年の視点を挟むことで、K-POPという当時まだ縁遠かった存在を、日本のお茶の間に接続するための橋渡しとして機能していたようにも見える。そう考えると、このMVの価値は物語の深さそのものよりも、初めて出会う人に向けた「入口の設計」にあったのかもしれない。
磐田に戻ってから、もう一度鳴らす
磐田に戻ってからこの曲を聴き直すと、東京で聴いていたときとは少し違う響き方をする。東京では、次々に新しいものが押し寄せてくる中の一曲だった。磐田では、その流れがいったん止まって、一曲一曲の輪郭がはっきり見える。土地が変わると、同じ曲でも聴こえ方が変わる。これは音楽の性質というより、自分の生活の速度が変わったということなのだと思う。家の仕事、親のこと、日々の相談ごと。忙しさの質が変わると、耳に入ってくるものの受け止め方も変わってくる。東京にいた頃は、音楽を「追いかける」ような聴き方をしていたが、今は音楽が向こうから静かに戻ってくるのを待つような聴き方になった気がする。
「Genie」が象徴していたのは、単に一組のグループの成功ではなく、日本の音楽環境が海外のものを自然に受け入れ始めた時期の空気だったのだろう。今では若い世代がSNSで海外のアーティストを見つけ、言葉の壁を意識せずに聴くことが当たり前になっている。その当たり前は、ある日突然できたものではなく、こうした一曲一曲が少しずつ耳を慣らしていった結果なのだと思う。自分がその変化のただ中にいたことを、当時はほとんど意識していなかった。磐田の家の近くを車で走りながらこの曲を流すと、東京のビル街で聴いていたときの記憶と、今の田んぼや山の景色が、奇妙に重なって聴こえる瞬間がある。同じ曲なのに、鳴っている場所の空気を吸い込んで、少しずつ違う曲になっていくような感覚だ。
家族と、更新される耳
親の世代と自分の世代、そして今の若い世代とでは、外から来る音楽への構えがまるで違う。実家の親にK-POPの話をしても、あまりぴんとこない顔をされることが多かった。一方で、当時の自分は既に、これは無視できない流れだと感じていた。世代が変わるごとに、何を「自分たちの音楽」とみなすかの線が引き直されていく。「Genie」を聴くと、その線が自分の中で動いた瞬間を思い出す。親の世代が慣れ親しんだ歌謡曲やニューミュージックとも違う、自分たちの世代が最初に外から迎え入れた大衆音楽の一つとして、この曲はどこか特別な位置にある。
不動産や介護の相談を受ける仕事をしていると、古いやり方に安心してしまう危うさに、しばしば直面する。長年のやり方で十分だと思っていたところに、新しい制度や新しい世代の感覚が入ってきて、それに応じて自分の仕事の形も変えていかなければならない場面がある。少女時代の完成度に触れたときの戸惑いは、当時の音楽業界の変化そのものだったのだろうが、今の自分の仕事にも、似たような問いが静かに戻ってくる。今の人に届く形になっているか、古い自信だけに寄りかかっていないか。「Genie」はそうした問いを、音楽の記憶を通して思い出させてくれる一曲だ。地方で不動産や介護の相談を受けていると、東京にいた頃には見えなかった家族の姿や土地の事情に、日々向き合うことになる。空き家の相談も、相続の相談も、結局はその家族がどんな時間を積み重ねてきたかという話に行き着く。K-POPという遠い場所から届いた曲が、いつのまにか自分の生活の一部になっていたように、仕事の現場で出会う一つひとつの相談も、最初は他人事のようでいて、気づけば自分の記憶や暮らしと重なっていく。
土地に残る音、家族に残る記憶
音楽は、聴いた場所や聴いていた時期の匂いを連れてくる。「Genie」を聴くと、東京の会社帰りの薄暗い駅前や、磐田に戻ってからの静かな夜の車内が、順番に浮かんでくる。同じ曲が、違う土地で、違う人生の段階を運んでくる。それは音楽が持つ、少し不思議な力なのだと思う。歌詞の内容を思い出しているわけではなく、その曲が流れていたときの自分の姿勢や、周囲の空気の温度を思い出している感覚に近い。東京の雑踏の中では気づかなかった曲の細部が、磐田の静けさの中で聴き直すと、はっきりと輪郭を持って耳に届くこともある。土地が変わることで、同じ音源から拾えるものが増えるという経験は、この曲に限らず、自分にとって何度もあったことだ。
家族との時間の中で、この曲がかかることはほとんどない。それでも、こうして記憶をたどり直すと、あの頃の東京での仕事や、磐田に戻ってからの家族との時間が、一本の線でつながって見えてくる。K-POPが特別な存在から、日常の音楽の一部になっていく過程を、自分は東京で体験し、磐田で確認した。「Genie」は、その移動そのものを記憶している曲だと言えるのかもしれない。仕事で家を空けていた頃の自分と、今こうして家族の近くで日々を送っている自分とは、聴いている音楽こそ同じでも、受け止め方がまるで違う。それは年齢のせいもあるだろうし、土地が持っている時間の流れ方の違いもあるのだろう。どちらが良い悪いという話ではなく、同じ一曲がその両方を映す鏡になっているということが、静かに面白いと思う。
参考リンク
- [1] Genie (Girls' Generation song) - Wikipedia
- [2] 少女時代、破格の日本デビューライブに2万2000人熱狂 - 音楽ナタリー
- [3] 少女時代が日本の音楽業界に与えた影響とは - ORICON NEWS
- [4] GENIE | 少女時代 Official Website
- [5] 中村彼方の作詞術 少女時代GenieとGeeの日本語歌詞の作り方 - miyearnZZ Labo
- [6] 中村彼方 氏によるGenie日本語詞についての投稿 - X(旧Twitter)
- [7] 少女時代はいかにしてK-POPの枠を超えたか - Real Sound
音楽が国境を越えて言葉をまとい直すように、家や土地にも、誰かが積み重ねた時間が残っています。
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