名刺の肩書き欄を、自分で新しく書かなければならなくなった時期がありました。東京の会社員としての肩書きを失い、まだ何者でもない状態で磐田に戻ってきたときのことです。「営業」でも「係長」でもない、まだ名前のついていない空欄をどう埋めるか。それは思いのほか心もとない作業で、しばらくの間、自分の名刺に何と書けばいいのか分からないままでいました。新しい肩書きを誰かが決めてくれるわけではなく、かといって空欄のままでは、初対面の相手に自分を説明することすらできません。何を名乗るかを自分で選び、その選択に自分自身で責任を持たなければならないという状況は、思っていた以上に重たいものでした。GLAYの「I am xxx」というタイトルを見るたびに、あの空欄を持て余していた時期のことを思い出します。この曲は、映画の主人公の内面をなぞって書かれた楽曲だと聞いていますが、「私は xxx である」という構文だけを切り取ってみると、そこには、まだ定まっていない自分自身を、自分の言葉で名指ししなければならないという、もっと個人的な緊張感が宿っているように聴こえます。空欄を埋めるのは、他人でも肩書きでもなく、結局は自分自身でしかない。この曲が持つ重さと疾走感の同居は、そういう心もとなさと、それでも前に進もうとする意志の両方を映しているように思えるのです。
映画の主人公に憑依するように書かれた曲
「I am xxx」は、GLAYのメジャーデビューからちょうど15年となる2009年5月25日に発売された41stシングルです。作詞・作曲を手がけたTAKUROは、この曲が主題歌となった映画『ラスト・ブラッド』の原作アニメーション『BLOOD THE LAST VAMPIRE』の熱心なファンだったとされ、同作のプロデューサーであるビル・コン氏がアジア圏のアーティストの楽曲を検討する中でGLAYに白羽の矢を立てたという経緯があったと伝えられています(BARKS)。原作の熱心なファンだったTAKUROがオファーを快諾したという巡り合わせ自体、狙って起きたことではなく、偶然が重なった末の依頼だったようです。TAKURO自身、「今までのGLAYのどの曲とも違う、重く暗いサウンド」で、主人公サヤが背負う悲しい運命への心の叫びをイメージして作り上げたとコメントしており、通常のシングルよりも硬質で重心の低いギターロックに仕上がっているのは、そうした憑依的な作り方の結果だと考えられます。タイアップ先の作品世界に憑依するようにして曲を書くという手法は、自分自身の内面をそのまま歌にするのとは違う、もう一段回り道をした自己表現のようにも見えます。楽曲は日本国内だけでなく、中国・台湾・香港をはじめとするアジア10カ国以上で同映画の主題歌に採用されたとされ、GLAYにとって初めての規模の海外展開だったとも言われています。一つの楽曲が、国も言葉も異なる複数の市場で同時に主題歌として機能したという事実は、この曲が持つ普遍性の高さを裏づけているように思います。シングルには表題曲のほかにインストゥルメンタルバージョンと、当時「Album Flash」と仮題がついていたとされる楽曲を含む全3曲が収録されており、映画のための書き下ろし曲でありながら、シングルとしての聴きごたえも意識した構成になっていた点がうかがえます。
月曜リリースという異例づくめの初動
「I am xxx」は、通常のCD発売日である水曜日ではなく、あえて月曜日の2009年5月25日にリリースされました。この日付は、GLAYのメジャーデビューシングル「RAIN」が発売された日と同じで、デビューからちょうど15年の節目に合わせた選択だったと伝えられています。発売日をずらしてまで記念日に合わせるという判断からは、単なる新曲リリースではなく、バンドの歴史の一つの区切りとして、この曲を位置づけたい意図が感じられます。集計期間が通常より短くなる不利な条件の中で、オリコン週間シングルランキングでは初動2位を記録し、月間チャートでも上位に入ったとされています(参考リンク記載サイトによる)。正確な売上枚数までは確認できていませんが、節目のタイミングと重いテーマの楽曲であるにもかかわらず、上位にランクインしたという事実からは、当時のGLAYが持っていた集客力の底堅さがうかがえます。デビュー15年を経てもなお、新曲を出せば上位に食い込むだけの支持基盤を保っていたという点は、単発のヒット曲では測れない、バンドとしての持久力を物語っているように思います。今回確認した映像は、同じ2009年8月に横浜の日産スタジアムで行われた15周年記念ライブ「THE GREAT VACATION」で披露されたバージョンで、リリース直後の緊張感がまだ残るステージだったのではないかと感じさせる演奏です。発売からわずか3カ月足らずでの大舞台での披露だったことになり、映画公開と重なる時期のプロモーションとしても、バンドの15周年を祝うライブとしても、この曲が果たしていた役割は一つではなかったのだろうと想像させられます。15万人規模の会場という開放的な空間で、あえて重く暗い楽曲を正面から演奏している様子には、聴き手に迎合しない姿勢のようなものも感じられます。夏の野外という華やかな舞台と、映画のために書かれた重いテーマの楽曲という組み合わせは、一見ちぐはぐにも思えますが、15年続けてきたバンドだからこそ、明るい祝祭の中に、あえて陰影のある楽曲を差し込む余裕があったのではないかとも感じられます。
重さと疾走感が同居するサウンド
この曲を聴いていて印象的なのは、暗く重いトーンで始まりながら、サビに向かって前のめりに加速していく構成です。悲愴感を湛えたイントロから一転して、疾走感のあるビートに切り替わる展開は、悲しみに沈み込むのではなく、悲しみを抱えたまま走り出そうとする意志のようにも聴こえます。TAKUROが「重く暗いサウンド」と語った通り、ギターのリフには重心の低さがありますが、そこに乗るボーカルのメロディラインは意外なほど前向きで、両者の緊張関係がこの曲の推進力を生んでいるように感じられます。重さと疾走感、暗さと前向きさという、本来なら相反するはずの要素を一つの曲の中に同居させている点に、この曲の完成度の高さが表れているように思います。タイトルの「xxx」という伏せ字は、歌詞の内容を離れて眺めても、聴き手それぞれが自分の状況を投影できる余白として機能しており、重いサウンドと開かれたタイトルという、一見矛盾する要素が同居している点が、この曲を単なるタイアップ曲以上のものにしているのだと思います。日産スタジアムでの演奏を映像で見返すと、ボーカルの熱量が終盤にかけて増していく様子が見て取れ、伏せ字のタイトルを、その日その場にいた聴き手それぞれの心情で埋めていくような一体感が生まれていたのではないかと感じさせられます。
肩書きのない時期に、自分で名乗ること
東京で働いていた頃は、名刺に印刷された肩書きが、そのまま自分を説明する言葉になっていました。部署名と役職名さえ名乗れば、初対面の相手にも、自分がどういう立場の人間かをひとまず理解してもらえる。それは便利であると同時に、自分自身がどういう人間なのかを深く考えずに済む仕組みでもあったのだと、今になって思います。会社を離れ、家や土地に関わる仕事を始めるようになってから、その肩書きが自分自身の内側から出てきたものではなく、会社という枠組みから借りていたものだったのだと気づかされました。借り物の肩書きを失った後に残るのは、まだ言葉になっていない自分自身の輪郭だけです。空欄になった肩書き欄を、誰かに埋めてもらうことはできません。自分がどういう仕事をしていて、何を大事にしているのか、時間をかけて自分の言葉で書き直していくしかなく、その作業は今も途中にあります。焦って埋めようとすると、結局また借り物の言葉に頼ってしまうので、急がずに、実際の仕事や暮らしの中で確かめながら書き足していくしかないのだと、少しずつ分かってきました。誰かに肩書きを与えてもらう立場から、自分で自分の役割を定義する立場に変わったことは、不安である以上に、これまで意識してこなかった自由を手にすることでもあったのだと、時間が経ってから気づきました。会社員だった頃は考えもしなかった仕事の進め方や、断ることのできる依頼と断れない依頼の線引きさえも、すべて自分で決めなければならず、その一つひとつの判断が、少しずつ「自分は何者か」という空欄の輪郭を描いていったように思います。「I am xxx」というタイトルの構文を借りるなら、あの時期の自分は「I am ___」の空欄を、まだ何一つ書き込めない状態で立っていたのだと思います。
磐田の土地と家族の中で、空欄を埋め直す
磐田で家や土地の相談を受けていると、相続や空き家をきっかけに、自分の家族や自分自身の立場を、あらためて言葉にし直さなければならない方々に出会うことがあります。「実家をどうするか」という問いは、突き詰めると「自分は何者として、この土地や家族とどう向き合うか」という問いに近づいていきます。長男だから、跡を継ぐ立場だから、といった与えられた役割の言葉だけでは説明しきれない部分を、それぞれの方が自分の言葉で埋めようとしている場面に、何度も立ち会ってきました。遠方に住む家族との温度差に悩む方もいれば、住み慣れた土地を離れがたいと感じながらも現実的な選択を迫られる方もいて、その事情は一つとして同じではありません。それでも共通しているのは、既製の答えを当てはめるのではなく、自分たちなりの言葉を見つけ出そうとする姿勢だという点です。誰かが代わりに埋めてくれる空欄ではなく、自分の言葉で、少しずつ書き込んでいくしかない空欄です。土地や家族との関係は、契約書のように一度署名すれば確定するものではなく、暮らしていく中で何度も書き直しを重ねていくものなのだと、この仕事を続けるうちに感じるようになりました。「I am xxx」を聴くと、あの重く始まって前に進んでいく曲調に重ねて、自分自身の肩書きを、家族や土地との関係の中で書き直してきた日々のことを思い出します。空欄を埋める作業に終わりはありませんが、書き込むたびに、その空欄は少しずつ自分の輪郭に近づいていくのだと感じています。曲が鳴り止んだ後も、その空欄を埋める作業だけは、日々の暮らしの中で静かに続いていきます。家族の集まりで実家の話題が出るたびに、以前とは少しずつ違う言葉で自分の考えを話せるようになっている自分に気づくことがあり、それもまた、空欄が埋まっていく過程の一つなのだと感じています。土地や家を仕事として扱うようになって分かったのは、空欄を埋めるという作業が、書類の手続きのように一度で完了するものではなく、季節や家族の状況が変わるたびに、また少し書き直しを迫られる性質のものだということです。それでも、真っ白なままでいるよりは、書いては直しを繰り返しながらでも、自分の言葉で埋めていくほうがずっと確かな手応えがあります。
参考リンク:
映画『ラスト・ブラッド』の主題歌は、GLAYの書き下ろし(BARKS)
I am xxx - Wikipedia
GLAY / I am xxx(GLAY公式サイト)