「あの夏へ」という原題を持つこの曲は、映画『千と千尋の神隠し』の冒頭、まだ何も始まっていないはずの場面で流れ出します。ピアノがひとつ、またひとつと音を置いていくだけなのに、聴いているこちらはすでに、千尋が迷い込むあの不思議な世界の気配を感じ始めている。久石譲はこの旋律を、4度の音を積み重ねたコードと、通常の和音の外にある緊張感を残した響きで組み立てているとされ、そのために曲全体がどこか宙に浮いたような、輪郭のはっきりしない情感を帯びて聴こえます。冒頭の場面と、千尋がハクからもらったおにぎりを食べて涙を流す場面で同じ旋律が繰り返されることは、この曲が単なる情景音楽ではなく、物語の中で千尋の記憶をつなぎとめる役割を担っていることをうかがわせます。東京で働いていた頃、この曲を何度も聴き返した記憶がある。当時は意味もわからないまま、ただピアノの最初の数音に何かを預けているような感覚があった。磐田に移り住んでからも、ふとした瞬間にこの旋律が頭の中で鳴ることがある。仕事の資料を片づけている合間や、家の窓から遠州の空を眺めているとき。そのたびに、たった一音から世界がひとつ立ち上がっていくという感覚を、あらためて確かめ直している。
宮崎駿のメモから生まれた旋律
「One Summer's Day」は、2001年公開の映画『千と千尋の神隠し』のために久石譲が作曲した楽曲です。制作の過程では、宮崎駿監督が久石譲にイメージを伝えるためのメモを渡したことが知られており、そこには「あの日の川へ」「白い竜」「夜が来る」「油屋」「神々さま」「海」「さみしい さみしい さみしい」といった言葉が並んでいたと伝えられます。監督からの言葉を手がかりに、久石譲が音として立ち上げていった曲のひとつが、この「あの夏へ」だったということになります。劇場用パンフレットに掲載された久石譲自身のインタビューによれば、作曲にあたって意識していたのは「10歳の少女を等身大で描く」ことだったといい、千尋にまつわる旋律はあえて簡素に、ピアノや弦楽器を中心にした静かな響きでまとめる一方、周囲の異世界の場面では大編成のオーケストラを用いることで対比を作ったとされます。イメージアルバムに収められていた「海」という曲が、千尋のテーマの根底にある「素朴で懐かしい感じ」「ひとりぼっちなのに前向きに生きるひたむきさ」を体現していたと久石譲は語っており、「One Summer's Day」もまた、その同じ手触りの延長線上にある旋律だと考えられます。録音はスタジオではなくコンサートホールで行われたと伝えられており、この選択が、曲全体に漂う残響の深さや、空間の広がりを感じさせる響きにつながっているようです。仕事の現場で、誰かの短い言葉から企画の全体像を汲み取らなければならない場面が何度もあった。宮崎駿の走り書きのようなメモから、これほど多層的な旋律が生まれていった過程を知ると、少ない手がかりから世界をどう広げるかという営みは、映画音楽に限らず、どんな仕事にも通じるものなのだと感じる。
四度の響きが生む、記憶の質感
この曲の分析を試みた研究では、93小節からなる構成の中に、イントロ、A、ブリッジ、B、A1、B1、A2、エンディングという主題の変形が積み重ねられていると指摘されています。とりわけ特徴的なのは、随所に現れるサスペンデッド・コードで、後半の82小節目から83小節目、89小節目から90小節目、そして92小節目にかけて繰り返し用いられているとされ、エンディングの5つの和音もそのほとんどがサスペンデッド系の響きで締めくくられているといいます。通常のコードが持つ解決感をあえて先延ばしにするこの響きは、聴いている側に「まだ終わっていない」「まだどこかへ向かっている途中だ」という感覚を残すように聴こえます。物語の中で千尋が体験する出来事も、ひとつとして完全に解決しきったまま終わるわけではなく、名前を奪われ、また取り戻していく過程そのものが宙づりの状態にあります。その不安定さと、サスペンデッドコードが生む未解決の響きは、どこかで重なっているのではないかと感じられます。ピアノの一音一音が、次の音へ向かう途中の緊張を含んだまま鳴っている。そう聴くと、この曲がただ美しいだけでなく、どこか落ち着かない、記憶の手触りに近いものを持っていることに気づかされます。家族との時間の記憶も、いつも都合よく完結しているわけではありません。むしろ、言い切れなかった言葉や、確かめられなかった気持ちのほうが、ずっと長く残り続けるものです。この曲のサスペンデッドな響きを聴くたびに、そうした未完のまま持ち越された記憶の質感を思い出します。
三十万枚を超えて残り続けたサウンドトラック
『千と千尋の神隠し』のサウンドトラックは2001年7月18日に発売され、30万枚を超える売上を記録したと伝えられています。数字そのものよりも、発売から20年以上を経た今も、コンサートやコンピレーションアルバムで繰り返し演奏され続けているという事実のほうが、この曲の位置づけをよく物語っているように思います。オーケストラの重厚な響きと、ピアノ主体の簡素な旋律が交互に現れる構成は、映画の中で日常と異世界を行き来する千尋の視点そのものを音楽的に表現しているとも評されており、「One Summer's Day」はその中でも、現実の側に最も近い場所に置かれた曲だと感じられます。異世界の場面がガムラン風の響きや沖縄の旋法など、久石譲自身が「料理でいう飾りつけ」と語ったとされる装飾的な要素で彩られているのに対し、この曲だけは終始、ピアノという楽器の素の響きに寄り添い続けています。だからこそ、聴く者は自分自身の記憶をこの旋律に重ねやすいのではないかと思います。東京にいた頃の自分と、磐田で家族と暮らす今の自分。仕事の中で積み重ねてきた土地との関わりと、これから先も続いていくはずの暮らし。派手な転調も劇的な盛り上がりもないこの曲が、それでも長く聴かれ続けているのは、誰の記憶にも寄り添える余白を残しているからなのかもしれません。
ひと粒の音から立ち上がる、いまの仕事と暮らし
磐田で不動産の仕事をしていると、ひとつの土地、ひとつの家の背後に、その家族が積み重ねてきた長い時間があることを、日々感じます。空き家になった実家を前にした相談も、相続を機に土地の行く末を考える相談も、最初に受け取るのはほんの数語の言葉でしかありません。それでも、その数語の奥には、その家で交わされてきた無数の会話や、季節ごとの営みが積み重なっている。「One Summer's Day」の最初のピアノの一音が、映画全体の世界観を静かに立ち上げていくように、目の前にある小さな手がかりから、その背後にある大きな物語を想像しようとする姿勢は、仕事の場でも、家族と過ごす時間でも、変わらず必要とされているのだと思います。この曲を聴くとき、東京で働いていた頃の自分と、磐田で土地や家族と向き合っている今の自分が、ひとつの旋律の中でつながっているように感じられることがあります。ピアノのひと粒の音から、ひとつの世界が立ち上がる。その体験を、これからも折にふれて思い出しながら、日々の仕事と暮らしを重ねていきたいと思います。