ページ作成日: 2026年7月3日
元にしたYouTubeリンク: https://www.youtube.com/watch?v=l0GN40EL1VU
確認した動画: Joe Hisaishi - Summer(JoeHisaishiVEVO公式)

大石セレクション:曲がいい ★★★★★

  • 曲がいい:★★★★★
  • 歌詞がいい:評価対象外(インストゥルメンタル曲のため)
  • MVがいい:★★★☆☆

選定理由:「Summer」は歌詞を持たないインストゥルメンタル曲であり、曲の魅力はメロディと構成そのものに集約されている。跳ねるようなリズムで軽やかに始まりながら、随所にふと翳りの差す和声が挟まれ、単なる明るさだけでは終わらない奥行きを作っている。約6分半という主題歌にしては長い尺の中で、同じ主題が形を変えながら繰り返され、聴くたびに違う情景が浮かぶ懐の深さがある。何より、監督の要望どおりに作ったリリカルな本命ではなく、力の抜けた副題の方が採用されたという成り立ち自体が、「曲そのものの強さ」を証明しているように思え、主視点は曲がいいに置いた。

北野武監督の映画『菊次郎の夏』は、乱暴で不器用なおじさんと、母親を訪ねる少年との、ぎこちない夏の旅を描いたロードムービーです。北野監督はこの映画のテーマ曲について、久石譲に珍しく「リリカルなピアノもの」という具体的な注文をつけたと伝えられます。ところが出来上がった二つの候補曲のうち、監督が選んだのは、リリカルに作ったはずの曲ではなく、軽やかで親しみやすいもう一方の曲だったといいます。真剣に作り込んだ本命が外れ、力を抜いて仕上げたはずの曲が採用される。この逆転のエピソードを知ってから、「Summer」を聴くと少し違って聴こえてきます。整えようとした思いよりも、力の抜けたところに滲み出たものの方が、結局は遠くまで届く。そんなことを、この曲の成り立ちそのものが語っているように感じられるのです。仕事でも家のことでも、力を入れて用意した言葉より、ふと漏らした一言の方が相手に届いた経験が、自分にもいくつかあります。「Summer」はそういう、狙って出せるものではない優しさの気配を、軽やかなメロディーの中に閉じ込めた曲なのではないかと思います。人に何かを届けようとするとき、こちらの意図が強すぎると、かえって相手に響かないことがあります。準備した言葉より、力の抜けた場面でふと出た一言の方が、後になって長く覚えられている。そういう経験を積み重ねてきた者にとって、この曲の成り立ちそのものが、ひとつの示唆のように感じられます。

「これ、いいじゃない」――逆転から生まれた主題歌

「Summer」は、1999年公開の映画『菊次郎の夏』のメインテーマとして久石譲が作曲した楽曲です。Wikipediaの記載によれば、同年5月26日にポリドール(ポリグラム)からCDシングルとしてリリースされ、映画のサウンドトラックアルバムにも収録されています。tap the popの記事によると、北野監督はこの映画の音楽について珍しく「リリカルなピアノもの」という具体的な要望を出し、当時のプロデューサー・森昌行氏も「具体的にイメージを示すのは珍しく、よほどのこだわりがあったのでしょう」と振り返っているといいます。久石はその要望に沿って、リリカルな主旋律と、軽やかで爽やかな副旋律の、二つのテーマを用意しました。ところが監督が気に入ったのは後者で、結果としてメインテーマと副次テーマの役割が入れ替わり、映画のために用意していた場面ごとの曲を作り直すことになったと伝えられます。力を込めて作った曲ではなく、肩の力を抜いてピアノに向かって紡いだ曲が選ばれた。この経緯を久石自身は、北野監督の「時代を読み取る力」だと評していたといいます。整えた正解より、ふと漏れ出たものの方が正しいことがある。「Summer」という曲名の軽やかさの裏には、そういう制作上の逆転劇が隠れています。あらかじめ用意した「正解」を手放し、思いがけず出てきたものを採用する。この判断は、監督にとっても勇気の要る決断だったはずです。映画音楽という、物語の意図に沿うことが求められる仕事の中で、あえて計算の外にあるものを選び取った北野監督の姿勢は、久石の音楽家としての引き出しの広さを、逆説的な形で証明しているようにも思えます。久石譲はこれまで、スタジオジブリ作品をはじめ数多くの映画音楽を手がけてきた作曲家ですが、北野武監督とのコンビでは、宮崎駿作品とはまた違う質感の仕事をしてきたことでも知られています。壮大なファンタジーの世界観を支える音楽ではなく、市井の人間の不器用な生き様に寄り添う音楽。『菊次郎の夏』というやくざ映画の監督が撮った、意外なほど柔らかいロードムービーに対して、久石が用意した二つの候補曲のうち、より肩の力の抜けた方が選ばれたという事実は、この映画そのものの性格ともよく響き合っているように感じられます。

誰の記憶にも夏を呼び起こす、6分半のメロディー

『菊次郎の夏』は、夏休みに一人で母親を訪ねようとする少年と、しぶしぶ付き添うことになった中年男性・菊次郎の、噛み合わない二人旅を描いた物語です。カンヌ国際映画祭でパルムドールの候補にもなり、国内外で評価されたと伝えられます。「Summer」は約6分半という、主題歌にしては長めの尺を持つ楽曲で、tap the popの評では、聴き手それぞれの中にある夏の記憶――海、田園風景、家族との時間――を呼び覚ます曲だと評されています。映画のCM効果もあってか、公開後は作品の枠を超えて広く親しまれるようになり、2000年から2002年にかけてトヨタ「カローラ」のCMに、さらに2023年以降はキリンビバレッジの企業広告にも起用されたとWikipediaに記載されています。物語を知らずにこの曲だけを聴いても、どこか懐かしい夏の情景が浮かんでくる。そういう普遍性を持った旋律だからこそ、映画のヒットとは独立した形で、長く生き続けているのだと思います。オリコンチャートの具体的な順位や、シングルとしての売上枚数については、今回参照できた資料の範囲では確認できませんでした。数字として語られる成功物語よりも、CMや式典、コンサートで繰り返し使われ続けることで少しずつ広く知られていった曲、という方がこの曲の実際の歩みに近いように感じます。派手な初速ではなく、時間をかけて生活の中に染み込んでいくタイプの浸透の仕方をした楽曲だったのではないでしょうか。一つの映画のために書かれた曲が、映画館を出た後も、CMやコンサート、日々のふとした瞬間に流れ続け、いつしか映画そのものを見たことがない人にまで届いていく。この曲の浸透の仕方は、良い意味で作品からひとり歩きした音楽の在り方を示しているように思います。物語を背負ったまま生まれた曲が、いつの間にか物語から自由になり、聴く人それぞれの記憶と結びつく固有の意味を獲得していく。「Summer」はまさにそういう道筋をたどった曲の一つなのだと思います。映画館で観た人には菊次郎と少年の旅の記憶として、CMで耳にした人には別の夏の記憶として、この曲は同じメロディーのまま、それぞれ違う顔を見せているのではないでしょうか。

軽やかさの奥にある、不器用な優しさ

「Summer」のメロディーは、跳ねるようなリズムと、明るい長調の響きで進んでいきます。難しい理屈を持ち出さなくても、聴けば誰もが「軽やかだ」と感じる曲だと思いますが、その軽やかさは決して底の浅いものではなく、どこかに翳りを含んだ温かさを伴っているように聴こえます。映画の中で菊次郎という男は、口が悪く、態度も乱暴で、少年に優しい言葉をかけることはほとんどありません。それでも旅の途中、ふとした場面で見せる不器用な気遣いが、この曲の軽やかさと重なって記憶に残ります。優しさというものは、まっすぐな言葉にするとかえって嘘っぽくなることがあります。むしろ回り道をして、ぶっきらぼうな態度の隙間からこぼれ落ちるくらいの方が、本物らしく感じられる。「Summer」という曲が持つ軽やかさは、そういう不器用な優しさの手触りを、理屈抜きに音で伝えているように思うのです。旋律そのものは決して複雑な作りではなく、跳ねるようなリズムに乗って、耳なじみのよい音の運びが繰り返されていきます。それでいて単調に響かないのは、明るさの合間に、ふと影が差すような瞬間が挟み込まれているからではないかと聴こえます。晴れた日でも、雲がひとつ通り過ぎるだけで光の色が変わるように、この曲もまた、軽やかさの中にわずかな翳りを抱えたまま進んでいく。その翳りの部分こそが、菊次郎という不器用な男の輪郭と重なって、聴き手の記憶に長く残るのではないかと思います。編成も過度に厚くはなく、ピアノを軸にした素朴な響きが基調になっているように聴こえます。オーケストラで壮大に鳴らすことも、久石なら容易にできたはずですが、この曲に関してはあえて音数を抑えているように感じられ、それが結果として、菊次郎という不器用な男の飾らなさとよく重なっているのではないかと思います。技巧を誇示するのではなく、必要な音だけを置いていく。そういう引き算の姿勢が、この曲の軽やかさを支えているように聴こえます。

磐田で暮らしながら、不器用さの中の優しさを思う

東京で働いていた頃、言葉数の少ない人ほど、後になって深い気遣いをしてくれていたと気づかされることが何度もありました。忙しさに紛れて聞き流していた一言が、実はこちらを気にかけての発言だったと、時間が経ってから分かる。そういう遠回りの優しさに触れるたび、素直に受け取れなかった自分を少し悔やんだものです。磐田に戻り、家や土地、空き家の相談を受ける仕事をしていると、口下手でも、行動の端々に気遣いが滲む方々によく出会います。契約の話とは関係のない世間話の中に、こちらの暮らしぶりを気にかける言葉がふと混じっていたりする。それは決して洗練された優しさではありませんが、だからこそ本物だと感じられることがあります。相続や空き家の相談に来られる方の中には、亡くなった家族について多くを語らない人も少なくありません。それでも、片づけの手を止めてふと見せる表情や、思い出の品を扱う手つきの丁寧さに、言葉にならない愛情が表れていることがあります。土地や家というものは、そこに暮らした人の不器用な優しさの記録でもあるのだと、この仕事を続けるうちに感じるようになりました。誰かのために整えた言葉よりも、日々の暮らしの中に残された痕跡の方が、その人らしさをよほど雄弁に語っていることがあります。「Summer」を聴くと、そうした不器用な人たちの記憶が、東京にいた頃のものも、磐田で出会った方々のものも、一緒くたになって蘇ってきます。家族と過ごす夏の時間にも、うまく言葉にできない気遣いが積み重なっていることに、この曲を聴くたびあらためて気づかされます。狙って美しく整えたものより、力の抜けたところからこぼれた優しさの方が、結局は長く胸に残る。「Summer」という曲の成り立ちそのものが、そのことを静かに教えてくれているように思います。子どもと一緒に過ごす夏の休日に、この曲をかけることがあります。子どもは曲の由来や制作の逸話など知らないまま、ただ軽やかな旋律に合わせて体を揺らしています。それでいいのだと思います。北野監督が「これ、いいじゃない」と即座に選んだように、理屈より先に体が反応するものにこそ、本物の手触りが宿っている。そんな瞬間を、この曲は毎年の夏、変わらず運んできてくれます。整えようとしなくても伝わるものがある。そのことを、家族との何気ない時間の中で、あらためて確かめさせてくれる曲です。

参考リンク