ページ作成日: 2026年7月3日
元にしたYouTubeリンク: https://www.youtube.com/watch?v=L0kztbkg1DQ
確認した動画: 【公式】KICK THE CAN CREW「クリスマス・イブRap」(MV)【4thシングル】(Warner Music Japan公式)

クリスマスに聴く曲というのは、他の季節の曲とは少し違う場所に保管されているように思います。一年のうち十一か月はしまわれたままで、十二月に入った途端、記憶の奥から自然に呼び起こされる。「クリスマス・イブRap」は、自分にとってまさにそういう曲でした。KICK THE CAN CREWが山下達郎の「クリスマス・イブ」をサンプリングして作ったこの曲は、2001年11月7日に4thシングルとしてリリースされ、初動でオリコン8位、売上は30万枚を超えるヒットになったとされます。季節性の強さゆえに当時のオリジナルアルバムには収録されず、長らくデジタル配信もされないまま、いわば宙に浮いたような状態が続いていた曲でもありました。その状態に区切りがついたのは、CD発売から16年後の2017年、さらに映像という形を得たのは、23年後の2024年12月11日になってからです。長い空白を経て、ようやくミュージックビデオとして日の目を見たことは、TOWER RECORDS ONLINEや音楽ナタリーなど複数のメディアでも取り上げられました。ただ、自分がこの曲について考えたいのは、その空白の長さそのものよりも、この曲が「毎年十二月にだけ思い出される」という性質を、20年以上抱え続けてきたという事実です。歌詞の中身をここで引用するつもりはありませんが、原曲へのリスペクトを保ちながら、自分たちの言葉でクリスマスの情景を塗り替えていくラップの構成は、聴くたびに、季節が巡るたびに違う自分がそこにいたことを思い出させてくれます。子どもの頃、学生の頃、東京で働いていた頃、そして今、磐田で家族と過ごす十二月。同じ曲なのに、聴こえてくる自分の記憶はそのつど違う顔をしています。

山下達郎への敬意という制約の中で

サンプリングという手法は、時に安易な借用と見なされることがあります。しかし「クリスマス・イブRap」を聴くと、そこにあるのは借用というより、原曲への敬意を土台にした再構築のように自分には聴こえます。山下達郎の「クリスマス・イブ」は、それ自体が日本のクリスマスソングの定番として長く聴き継がれてきた曲であり、その旋律やコード進行を下敷きにするということは、相応の緊張感を伴う作業だったはずです。KICK THE CAN CREWはヒップホップという文脈でこの曲に新しい言葉を重ねましたが、原曲の持つ穏やかな質感を壊すことなく、その上に自分たちのラップを乗せる作り方を選んだように聴こえます。派手に作り替えるのではなく、原曲の輪郭を尊重しながら、その内側で自分たちの声を響かせる。この抑制の効いたバランス感覚が、20年以上経った今でもこの曲が古びて聴こえない理由のひとつではないかと思います。

何かを新しく作るとき、ゼロから独自のものを立ち上げるのと、すでにある大切なものを引き継ぎながら手を加えるのとでは、求められる誠実さの種類が違います。後者のほうが、時に難しい。原曲に敬意を払いながら、それでも自分たちの色を出さなければならないからです。この曲を聴くたびに、そういう緊張感がわずかに聴こえてくる気がします。三人のラップがそれぞれ違う質感を持ちながら、原曲のメロディラインの記憶を邪魔しない範囲で言葉を刻んでいく構成は、まるで先に建っていた家の間取りを大きく壊さずに、必要な部分だけを改修していく仕事に近いようにも思えます。土台にあるものを尊重しながら、そこに新しい生活を重ねていく。仕事で古い家に手を入れる相談を受けるとき、いつも同じような緊張感を覚えます。何もかも壊して新しくするほうが、実は簡単な場合が多いのです。難しいのは、残すべきものを見極めながら、その中に新しい時間を差し込んでいくことです。「クリスマス・イブRap」がヒップホップという当時まだ新しかった文脈の中で、あえて先人の曲を土台に選んだことにも、同じような覚悟があったのではないかと想像します。

季節がめぐるたびに立ち止まる場所

東京で働いていた頃、十二月はいつも慌ただしい月でした。忘年会、年末調整、取引先への挨拶回り。仕事に追われながら、街のどこかでこの曲が流れていると、ふと足が止まる瞬間がありました。イルミネーションに彩られたオフィス街の中で、この曲だけが、自分がまだ何者でもなかった学生時代の記憶を連れてくるようでした。曲というのは不思議なもので、一年のうち十一か月は思い出しもしないのに、季節が巡ってくると、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ります。

磐田に戻ってからも、この感覚は変わりません。むしろ、東京にいた頃よりも強くなった気がします。師走の慌ただしさの中に紛れてしまいがちだった十二月が、地元に戻ってからは、家族と過ごす時間としての輪郭をはっきり持つようになったからかもしれません。子どもと一緒に近所の電飾を見て回った帰り道、車の中でこの曲を流すと、東京の雑踏の中で聴いていた頃とはまったく違う響き方をします。同じ音源のはずなのに、聴く場所と一緒にいる相手が変われば、曲の質感まで変わって聴こえる。これもまた、クリスマスソングという季節限定の音楽が持つ独特の性質なのだと思います。一年の残り十一か月を静かに待ってから、決まった季節にだけ鳴らされる曲には、他の曲にはない特別な重みが宿ります。

音楽的な作りとしても、この曲はどこかせわしなく明るいだけのクリスマスソングとは一線を画しているように聴こえます。原曲が持っていた穏やかなテンポ感を大きく崩さず、その上にラップの言葉数を丁寧に配置していく構成は、聴き手を急かすというより、むしろ立ち止まらせる方向に働いているように感じます。師走という、一年でもっとも慌ただしい季節にあえて「立ち止まる」ための曲を差し出したのだとすれば、その選択自体が、この曲の静かな強さなのだと思います。

三つの声が回すクリスマスの時間

KICK THE CAN CREWはKREVA、MCU、LITTLEという三人のMCによるグループで、この曲でもそれぞれのラップの質感の違いがはっきりと聴き取れます。ひとりが情景をなめらかに描写すれば、もうひとりがそこにリズムの跳ねを加え、また別のひとりが少し斜めから言葉を差し込んでくる。ひとりだけの視点で描かれるクリスマスではなく、三つの異なる目線が重なり合いながらひとつの十二月の情景を作り上げていくように聴こえます。バトンを渡すようにヴァースが移り変わっていく構成は、この曲が単なるラブソングやパーティーソングにとどまらず、複数の記憶が折り重なった時間そのものを描こうとしているようにも感じられます。

家族と過ごすようになった今、この「複数の声が重なる」という構造が、以前よりも自分に近く感じられるようになりました。ひとりで過ごしていた頃の十二月と、家族それぞれが違う十二月の記憶を持ち寄って過ごす今の十二月とでは、同じ季節でもまったく違う手触りがあります。子どもには子どもの、妻には妻の、それぞれ違うクリスマスの記憶があり、それが毎年少しずつ積み重なっていく。三人のラッパーが自分の言葉で同じ季節を語り合うこの曲の構成は、ひとつの家族が同じ十二月をそれぞれの記憶として抱えながら過ごしていく様子と、どこか重なって聴こえるのです。

不遇と呼ぶには惜しい、静かな定着のしかた

「クリスマス・イブRap」は、派手な受賞歴や象徴的な記録で語られる曲ではありません。オリジナルアルバムに収録されなかったこと、長くデジタル配信されなかったこと、映像化まで23年を要したこと。こうした事実だけを並べると、この曲は不遇だったという印象を持たれるかもしれません。けれど自分は、少し違う見方をしています。派手なプロモーションで一気に消費される曲ではなく、毎年十二月になると自然と思い出され、静かに再生され続けてきたという事実のほうが、この曲にとってはむしろ本質的な定着のしかたなのではないかと思うのです。

チャートの記録は、その年のうちに更新され、忘れられていく性質のものです。しかし季節の記憶として人の暮らしに根を張った曲は、順位とは別の場所で生き続けます。オリコン8位、売上30万枚超という初動の数字は、当時のヒップホップグループとしては十分に大きなものだったとされますが、この曲の本当の実力は、その後の20年余りをかけて証明されてきたように思います。一度きりの瞬間風速ではなく、毎年同じ季節に呼び戻され続けるという、地味だけれど途切れない再生のされ方です。

磐田で家や土地の相談を受けていると、何年も、時には何十年も手つかずのまま残されてきた家に出会うことがあります。放置されていたように見えても、実際にはその家族なりの理由があって、まだ動かせなかっただけということが少なくありません。それを不遇だったと断じるのは簡単ですが、多くの場合、動き出すべき季節がただ来ていなかっただけなのだと、この仕事を続けるほどに感じるようになりました。「クリスマス・イブRap」が長い間、目立たない場所に置かれながらも、毎年十二月には確かに人々の記憶の中で鳴っていたように、家や土地にも、静かに巡ってくる季節というものがあるのだと思います。空き家の相談に来られる方の中にも、長年決心がつかなかったことを、ある年の暮れにふと決断される方がいます。なぜその年だったのかと聞いても、明確な理由が返ってくることは少ない。ただ、その季節が来た、としか言いようがないのだと思います。

来年の十二月も、また

この曲を聴くと、毎年少しずつ違う自分がそこにいたことに気づかされます。東京で忙しく働いていた頃の十二月、磐田に戻ったばかりで慣れない仕事に追われていた十二月、そして今、家族と穏やかに年の瀬を過ごす十二月。曲そのものは変わらないのに、聴くたびに映る景色が違う。これはクリスマスソングという、一年に一度しか本格的に呼び出されない音楽だからこそ持てる強さなのだと思います。毎日聴く曲は、いつしか生活の背景に溶けてしまいますが、一年に一度しか聴かない曲は、聴くたびにその年の自分を映す鏡のような役割を果たします。

来年の十二月、また街のどこかでこの曲が流れたとき、自分はどんな一年を過ごした後にそれを耳にするのだろうかと、今から少し考えています。子どもはまた少し大きくなっているはずですし、仕事で関わる家や土地の話も、また新しい局面を迎えているかもしれません。それでもこの曲のイントロが流れ始めた瞬間、きっと十二月という季節そのものが、静かに体の中に戻ってくるはずです。急いで結論を出す必要はなく、ただ季節が巡ってくるのを待てばいい。「クリスマス・イブRap」は、そういう気の長い付き合い方を教えてくれる曲として、これからも自分の十二月に、静かに置かれ続けるのだと思います。二十数年という時間をかけて映像という形にたどり着いたこの曲のように、自分の手元にある仕事や家族との時間にも、まだ形になっていないだけで、いつか静かに実を結ぶ季節が待っているのだと、十二月が来るたびに思い出したいと思います。