キリンジ「Drifter」は、2001年にリリースされた8thシングルで、4thアルバム『Fine』に収録されています。タイトルの「drifter」は、漂流者、放浪者という意味を持つ言葉です。ひとつの場所に留まり続けることができない人、流されながらどこかへ向かっていく人を指しています。冷たい世の中の中で、自分の輪郭がうまく定まらないまま進んでいく感覚。それでも、隣に誰かがいてくれるなら、その流れの中でも歩いていけるのではないか。そういう静かな決意と問いかけが、この曲には流れています。若い頃の自分にも、何者にもなりきれないまま日々を送っていた時期がありました。仕事も、暮らしも、将来のことも、はっきりとした形を持たないまま流されているような感覚があり、そのときにこの曲が鳴っていた記憶があります。2001年当時、まだ将来の輪郭をつかめずにいた自分にとって、この曲のタイトルはどこか他人事とは思えないものでした。歳月を経て聴き直すと、当時は説明できなかった不安の正体が、今なら少しだけ言葉にできる気がします。
漂流者としての自分
東京で働いていた頃、自分が何者であるかを、うまく言葉にできない時期がありました。仕事は与えられたことをこなし、生活は目の前のことに追われ、将来の輪郭ははっきりしないまま日々が過ぎていく。周りの人はそれぞれの道を進んでいるように見えるのに、自分だけがどこにも根を張れず、ただ流されているような感覚がありました。「Drifter」というタイトルを最初に見たとき、その言葉が自分のことを言い当てているように感じたのを覚えています。定まった目的地を持たず、社会の流れに合わせて漂っていく。それは弱さのようでいて、実際には多くの人が経験する時間なのだと、今では思います。
漂流している間は、自分の位置を確かめることが難しくなります。今どこにいるのか、どこへ向かっているのか、何を目印にすればよいのか。若い頃は、そうした不安定さを情けなく感じていました。周りと比べて、自分だけが定まっていないように見えたからです。けれど、漂流者であることは、必ずしも欠けていることではありません。むしろ、まだ何にも固定されていないからこそ、進む方向を選び直せる自由も同時に持っていたのだと、今になって分かります。この曲が描く漂流者は、絶望しているわけではありません。冷たい世間の中でも、まだ歩き続けようとしている人です。
東京という街は、多くの漂流者を受け入れる場所でもありました。地方から出てきた人、目的を探している人、まだ何者にもなっていない人。誰もがどこかで自分の位置を探しながら歩いていました。自分もその一人でした。仕事の意味を見失いそうになった夜、この曲を聴くと、漂流しているのは自分だけではないのだと、少しだけ安心できたことを覚えています。定まらないことを恐れるのではなく、その状態のまま前へ進む強さを、この曲は静かに教えてくれました。振り返れば、あの頃の同僚や友人の多くも、同じように自分の輪郭を探しながら働いていました。誰も彼もが完成された姿で社会に出ていたわけではなく、みんなどこかで漂いながら、少しずつ自分の形を見つけていったのだと、今なら分かります。当時住んでいた部屋の窓から見えた夜景を思い出します。無数の明かりのひとつひとつに、自分と同じように定まらない誰かの生活があったのだと思うと、孤独だった夜も、少しだけ違う色に見えてきます。
Moon Riverと、ふたりの漂流者
「Drifter」の中には、ジャズの名曲「Moon River」への言及があります。「Moon River」には、ふたりの漂流者がともに人生を旅し、同じ夢を追いかけるという情景が描かれています。ひとりで流されるのではなく、ふたりで流される。その違いは小さいようで、実はとても大きなものです。ひとりの漂流は不安定さそのものですが、ふたりの漂流には、互いを見失わないための支えが生まれます。この曲が最終的に描いているのは、孤独な漂流ではなく、誰かと一緒に定まらない道を歩いていく覚悟だと感じます。「Moon River」がティファニーで朝食をの物語に流れていたことを思うと、漂流者への眼差しは決して悲観的なものではなく、むしろ夢を追い続ける者への祝福のようにも聞こえてきます。
自分にとっても、漂流していた時期を思い出すと、そこには必ず誰かの存在がありました。将来が見えないまま働いていた頃、隣で同じように迷いながら歩いてくれた人がいたから、その時間を乗り越えられたのだと思います。ひとりでは心細かった道も、誰かがついてきてくれる、あるいは自分がついていく相手がいると思えるだけで、進み方が変わります。「Drifter」が持つ愛の歌としての側面は、派手な情熱ではなく、不安定な自分をそのまま受け止めてくれる相手への信頼のようなものです。だから若い頃だけでなく、年齢を重ねてからも、この曲は違う形で響いてきます。
ふたりの漂流者という考え方は、家族という関係にも重なります。結婚し、家庭を持ち、暮らしを共にするということは、ふたりで同じ不確かさを引き受けることでもあります。将来がすべて見えているわけではなく、これから先も何かが変わり続ける。それでも、隣に誰かがいれば、漂流はただの不安ではなく、ふたりで進む旅になります。この曲を聴くと、自分がこれまで歩いてきた道のりに、いつも誰かの存在があったことを思い出します。ひとりで抱えていたら押しつぶされていたかもしれない不安も、隣に誰かがいると分かっているだけで、少し軽くなる瞬間がありました。「Drifter」が描く愛は、そういう静かな支え方をしているように感じます。
磐田で聴くDrifter
磐田で家や土地、空き家、相続の相談を受けていると、人はそう簡単には一箇所に定まらないのだと感じます。家族の形は時間とともに変わり、住む人も、住まない人も出てきます。親の代には家族が集まっていた家が、次の世代では誰も住まない家になることもあります。土地や建物は動かなくても、そこに関わる人の暮らしは、常に少しずつ漂流しています。この曲を今聴くと、若い頃に感じていた個人的な漂流だけでなく、家族や土地をめぐる、もっと大きな漂流のことも思い出します。空き家になった実家の玄関先に立つと、そこにかつて根を張っていた家族の時間と、今は離れ離れになった暮らしの両方が見えてくる気がします。
相続や空き家の相談を受ける中では、答えがすぐに出ない話がほとんどです。売るべきか、残すべきか、誰が管理するのか。家族それぞれの立場や気持ちが違うため、簡単には定まりません。そうした迷いの中にいる人たちを見ていると、「Drifter」が描く漂流者の姿と重なります。けれど、そこにも「ふたり」や「家族」という支えがあれば、迷いながらでも前へ進むことができます。ひとりで抱え込まず、誰かと一緒に迷うこと。それが、漂流を単なる不安ではなく、歩みに変えてくれるのだと、この仕事を通じて感じています。ひとつの答えに急いでたどり着くよりも、家族それぞれの揺れをそのまま聞き、時間をかけて一緒に方向を探すことのほうが、結果として納得のいく形に落ち着くことが多いように思います。
東京で漂流していた頃の自分と、磐田で人の漂流に付き添う今の自分は、別の場所にいながら、同じ問いの上に立っているように思います。人は、完全に定まることを目指さなくてもよいのかもしれません。むしろ、定まらないことを抱えたまま、誰かと一緒に歩き続けることのほうが、より確かな支えになることがあります。「Drifter」は、その揺れをなくすのではなく、揺れたままでも一緒に歩ける相手がいることの大切さを、今も静かに思い出させてくれます。東京で漂っていた自分も、磐田で人の漂流に寄り添う今の自分も、決して答えを急がず、揺れをそのまま受け止める姿勢を、この曲から少しずつ学んできたように思います。
ATAWI MUSICは、音楽を消費するサイトではありません。曲をきっかけに、定まらない時間の中で誰かと歩いてきた記憶を読み直す場所です。
