「朝焼けの日は雨が降る」という言い伝えを、私も子どもの頃に祖母から聞いた覚えがあります。空の赤さが強いほど雨に近いという、農家や漁師の経験則です。子どもの頃はそれを疑うこともなく、赤く染まった空を見上げるたびに、今日はどこにも出かけられないのかと、少しがっかりした気持ちになったものでした。ただ、この曲について語ったインタビューで、作詞・作曲を手がけた堀込高樹の弟であり歌唱を担う堀込泰行は、朝焼けにもいくつか種類があって、必ずしも雨に直結するわけではないと述べています。同じ空の赤さを見ても、それを不吉な前触れと読むか、まだ望みの残る余韻と読むかは、見る側の心持ち次第だという含みです。この曲のタイトルは、一見すると「美しいものの奥に不穏が潜む」という警句のように響きますが、実際にはむしろ逆で、決めつけずに希望を手放さない、という姿勢を静かに歌っているように聴こえます。キリンジというユニットがデビュー10周年という節目で鳴らしたこの曲には、断定を急がない大人の余白のようなものが宿っています。タイトルだけを見て早合点していた自分を、あとから静かに正してくれるような、そんな1曲です。曲を流れるメロディーラインは終始明るく、コード進行にも湿った暗さはほとんど感じられません。むしろ晴れやかで、どこかホーンの音色が弾むように響き、タイトルの持つ不穏さを軽やかに裏切っているように聴こえます。その落差こそが、この曲の核心にある「決めつけない」というメッセージを、音そのものでも体現しているのではないかと思います。
10周年、3か月連続リリースの締めくくりとして
「朝焼けは雨のきざし」は、2008年2月20日にリリースされたシングルです。作詞・作曲は堀込高樹、編曲はキリンジと堀込高樹、山本拓夫の名がクレジットされています。この曲は、同年に発表されたアルバム『7-seven-』からの先行シングルで、『7-seven-』自体は、キリンジのメジャーデビュー10周年を記念して行われた「10th.Anniversary 2008」という3か月連続リリース企画の最終作にあたります。2007年9月の『今日も誰かの誕生日』、同年12月の『グレイハウンド・マン』に続く3作目として送り出された『7-seven-』は、2007年6月から12月にかけて配信限定で発表された楽曲群も取り込みながらまとめられた、まさに10年間の集大成というべき作品です。前作、前々作のアルバムをたたみかけるように送り出したあとの、いわば10年間の総仕上げとして届けられた1曲だったことになります。3か月連続でアルバムを世に出すという企画自体、10年という節目を、静かに振り返るのではなく、勢いのまま駆け抜けるようにして祝おうとする意志の表れだったのではないかと感じます。
このシングルには、もうひとつ印象的なエピソードがあります。カップリングには、なんと10曲ものライブテイクが収められ、全11曲入りの大ボリュームとなりました。前年に日比谷野外大音楽堂で行われたライブの音源を、「せっかくミックスダウンしたので」という、なんとも肩の力の抜けた理由でまとめて収録してしまったのだと伝えられています。通常であれば別途ライブ盤としてリリースされてもおかしくないほどの分量を、1枚のシングルにそのまま添えてしまう。この常識にとらわれない大盤振る舞いは、リスナーを驚かせて楽しませたいという遊び心と、10年間支えてくれた聴き手への感謝の両方が滲んでいるように思えます。10年という節目を、肩肘張った総括ではなく、気負わない大盤振る舞いで祝う。その姿勢もまた、この曲が持つ「決めつけない」感覚と、どこか響き合っているように思います。物事を大げさに構えず、けれどやるときはとことんやる。そんなキリンジらしいバランス感覚が、このシングル1枚に凝縮されています。
兄弟が育ててきた、解釈の余地
堀込高樹が言葉とメロディーの両方を手がけ、堀込泰行がそれを声にする。この時期のキリンジは、そうした兄弟デュオの体制で、すでに10年近い時間を積み重ねていました。「朝焼けは雨のきざし」を聴くと、キャッチーで軽やかなメロディーラインの下に、断定を避ける歌詞の繊細さが同居していると感じます。曲調そのものはポップで開放的なのに、タイトルが投げかける問いは、簡単には答えの出ないものです。この振れ幅こそが、長く一緒に音楽を作ってきた兄弟だからこそ持てる、余裕のようなものではないかと思います。言葉を届ける泰行の声は、断定を強く主張するのではなく、聴き手それぞれの解釈に委ねるような、ふくらみのある歌い方に聴こえます。サビに向かって音数が増えていく展開も、答えを急いで押し付けるのではなく、いくつもの選択肢を提示してから聴き手に委ねるような、開かれた構成に感じられます。
兄弟でひとつの作品を作り続けるというのは、簡単なことではないはずです。血のつながりがあるからこそ、意見の衝突も、言葉にしなくても伝わってしまう甘えも生まれやすい。それでも10年という時間をともに歩んできたからこそ生まれる、こうした軽やかな余白のある楽曲は、単独のソングライターにはなかなか出せない厚みを持っているように思います。兄が言葉と旋律を紡ぎ、弟がそれを自分の声として引き受ける。その受け渡しの過程で、断定的だった言葉のトゲが少しずつ丸くなり、聴き手にとって心地よい余韻へと変わっていくのかもしれません。家族で何かを継続するという営みは、音楽に限らず、どんな仕事にも通じるところがあります。役割を分け合いながらも、最終的にひとつの形にまとめ上げていく過程には、言葉にならない呼吸の合わせ方が必要です。10年という時間は、その呼吸を無理なく身体に馴染ませるのに、ちょうどよい年月だったのかもしれません。
東京で働いていた頃、私は物事を白か黒かで判断することに、どこか安心感を覚えていました。上司の指示にも、取引先とのやり取りにも、明確な答えがあるはずだと思い込んでいたのです。会議の場でも、曖昧な結論を嫌い、白黒をはっきりさせることが誠実さの証だとすら考えていました。ですが年を重ねるにつれ、多くの物事は白でも黒でもなく、その日の光の当たり方でどちらにも見える、というのが実際のところなのだと気づくようになりました。この曲が鳴らす、決めつけない態度は、そうした気づきをそっと後押ししてくれるものでした。
磐田に戻ると決めた朝のこと
東京での仕事を辞め、磐田に戻って家業を継ぐと決めた朝のことを、今もときどき思い出します。あの日も、空は妙に赤く焼けていました。これから始まる生活が、うまくいくのか、それとも苦労の連続になるのか、当時の自分には見当もつきませんでした。周囲には「都会を離れるなんて」と惜しむ声もあれば、「地元に戻れて良かったな」と喜んでくれる声もあり、同じ決断がまったく違う色で語られるのを、不思議な気持ちで聞いていたのを覚えています。朝焼けをどう読むかが人によって違うように、ひとつの決断も、語る人の立場によって意味合いを変えるのだと、あのとき学んだ気がします。荷物をまとめて実家に戻る道すがら、車の窓越しに見た空の赤さを、今でもはっきりと覚えています。あの朝、自分はその赤さを、失うものへの寂しさとして受け取るべきか、これから始まるものへの期待として受け取るべきか、判断がつかないまま、ただ運転を続けていました。
家や土地の相談の現場でも、同じことをよく感じます。空き家を手放すという決断は、ある家族にとっては寂しい別れですが、別の家族にとっては新しい暮らしへの解放でもあります。相続の話し合いも、遺されたものをめぐる緊張の場面である一方、家族が久しぶりに顔を合わせて故人を偲ぶ機会でもあります。同じ出来事の朝焼けを、雨の前触れとして怯えながら迎えるのか、まだ晴れる望みを残したまま迎えるのか。その選び方ひとつで、その先の暮らしの手触りはずいぶん変わってくるように思います。相談に訪れる方の中には、決断そのものよりも、それをどう物語として自分に語り聞かせるかで悩んでいる方が少なくありません。手放すことは終わりであると同時に、次の暮らしの始まりでもある。そのどちらの側面から光を当てるかは、最後まで自分で選び取れるのだと、お伝えするようにしています。土地というものは、そこに暮らした人の記憶をそのまま吸い込んでいます。だからこそ手放す決断には、単なる不動産の処分以上の重みが伴います。それでも、その重みをすべて悲しみとして受け止める必要はなく、次の世代へ手渡す贈り物として受け止め直すこともできる。この曲が教えてくれる読み替えの自由さは、そうした場面でこそ、静かな支えになってくれます。
決めつけないという、静かな強さ
「朝焼けは雨のきざし」というタイトルを最初に見たとき、私はてっきり、美しいものの裏には必ず何か悪いことが待っている、という警句の歌だと思い込んでいました。ですが本人たちの言葉に触れてから聴き直すと、この曲が伝えたいのはむしろ、簡単に結末を決めつけてしまう心の癖への、やわらかな異議申し立てなのだと気づかされます。空模様も、人の暮らしも、家族の物語も、最後まで見届けるまでは、どちらに転ぶか本当のところは分かりません。その分からなさに耐えながら、それでも希望のほうに賭けてみる。10年という時間を積み重ねてきたキリンジだからこそ鳴らせる、静かな強さが、この曲には確かに宿っているように感じます。仕事でも家庭でも、白黒の判断を急がず、しばらく灰色のまま抱えておく余裕を持つこと。この曲を聴くたびに、そういう構え方を、あらためて自分に許してあげたくなります。
結末を急いで決めつけることは、ある意味では楽なことです。あらかじめ悪い方に構えておけば、実際に悪いことが起きても傷は浅く済み、良い方に転べば得をしたような気分になれる。そういう防衛的な生き方を、私自身、長いこと選んできたように思います。ですがこの曲を繰り返し聴くうちに、その防衛の姿勢が、目の前にある小さな希望の兆しを、見落とさせてしまっていたのではないかと感じるようになりました。朝焼けを見て身構えるのではなく、まずはその美しさをそのまま受け取る。それができるようになったのは、ここ数年、磐田で土地に根を張って暮らすようになってからのことです。空の色も、季節の巡りも、都会にいた頃よりずっと近くに感じられるようになり、朝焼けひとつにも、身構えるより先に、ただ見入ってしまう時間が増えました。
家族の暮らしの中でも、この曲の態度に助けられる場面があります。子どもの進路や、親の介護、これから先の住まいのこと。答えの出ない話題を前にすると、つい最悪の想定から話を始めてしまいがちです。ですがそれでは、話し合いの空気そのものが重く沈んでしまう。まずは朝焼けの美しさを認めるところから始め、雨が降るかどうかは、そのあとゆっくり考えればいい。そんな順序を心がけるようになってから、家族との会話の質が、少しずつ変わってきたように感じています。
ATAWI MUSICは、音楽を消費するサイトではありません。曲をきっかけに、決めつけずに希望を選び直してきた朝の記憶を読み直す場所です。