「祈り」がスマッシュ・ヒットを記録した直後の2000年5月31日、小林建樹は5枚目のシングル「SPooN」をリリースした[1]。ヒット曲の後というのは、多くのアーティストにとって難しい選択を迫られる瞬間だ。同じ路線を繰り返して安全を取るか、それとも別の色を見せるか。この曲のMVを開くと、まず目に飛び込んでくるのは、暗い格子状のパターンから、やがて画面いっぱいに広がる深い赤の質感だ。その選択は、明らかに後者を選んだことを物語っている。
ヒットの直後に選ばれた、異色の一曲
「祈り」がもたらしたヒットは、アーティストにとって大きな財産であると同時に、次回作へのプレッシャーにもなり得る。似たような静かなバラードを求める声もあっただろう中で、小林建樹が選んだのは「SPooN」という、どこか浮遊感のあるタイトルの一曲だった[2]。カップリングには「ジョニー・クローム」という楽曲が収められている[3]。「祈り」で見せた抑制的な美しさとは違う筋肉の使い方を、この曲では試している印象がある。ヒットの余韻に浸るのではなく、次の実験に向かう。そのフットワークの軽さこそが、小林建樹というアーティストが一発屋で終わらなかった理由のひとつなのだと思う。スプーンという日用品を思わせる軽やかなタイトルと、MVで展開される重厚な色彩表現との間にあるギャップもまた、この曲の面白さのひとつだ。
格子模様から深紅へ、色が語る感情の温度
MVの冒頭は、暗闇の中にうっすらと浮かぶ格子状のパターンから始まる。何が映っているのか判然としないまま時間が流れ、やがて画面全体が深い赤、あるいはえんじ色とも言えるような質感に覆われていく。この色の推移は、抽象的でありながら、確かに感情の変化を運んでいる。暗い格子は閉塞感や整然とした秩序を思わせ、そこから溢れ出すように広がる赤は、抑えきれない熱や衝動を思わせる。具体的な人物や場所を描かず、色彩そのものに語らせるという手法は、リスナーに解釈の自由を大きく委ねることになる。人によっては情熱と読み、人によっては警告や危険のサインと読むかもしれない。その余白の大きさこそが、この映像の強さだ。音だけで聴いていたときには気づかなかった感情の起伏が、この色彩の変化によって新しく開かれる。まさに「MVを見ることで曲の理解が深まる」という、大石セレクションにおける最も評価の高い状態に近い体験だと感じる。
言葉よりも質感で伝える、というもう一つの選択
歌詞に丸ごと触れることは控えるが、この曲が扱っているテーマは、はっきりとした物語よりも、感覚的な質感や手触りに近いところにあるように感じられる。「SPooN」というタイトルが持つ、すくう・掬い上げるというイメージは、何か形のない感情や記憶を、そっとすくい上げようとする行為を連想させる。派手な事件やドラマチックな展開があるわけではないが、その分、聴き手それぞれの記憶の中にある感情の断片と結びつきやすい柔らかさを持っている。「祈り」が静かな祈りの言葉を丁寧に紡いだ曲だったとすれば、「SPooN」はもう少し感覚的で、言葉よりも音の質感や色の記憶で伝えようとする曲なのだと思う。ヒットの後にあえてこうした感覚重視の作品を選んだことは、聴き手を飽きさせないための戦略であると同時に、アーティスト自身の表現の幅を広げるための冒険でもあっただろう。
実験を続けた者だけが辿り着く場所
デビューからここまで、小林建樹は「Sweet Rendez-Vous」の分割画面、「満月」の意表を突く歌詞、「祈り」の静謐なバラード、そして「SPooN」の色彩による抽象表現と、一貫して同じ手法を繰り返すことを避けてきた。ヒットが出たからといって同じ型を量産するのではなく、そのたびに新しい表現の可能性を試している。この曲は、そうした実験精神の延長線上にある一曲であり、単体で聴くだけでなく、それまでの4作と並べて聴いたときに、そのアーティストとしての振れ幅の大きさがより鮮明に見えてくる。ヒットの型に安住しないという選択は、短期的には勇気のいる判断だが、長い目で見れば、聴き手を飽きさせないアーティストであり続けるための、地味だが確実な投資だったのだと思う。深紅の映像が今も色褪せずに残っているのは、その投資が確かに報われた証だ。
「Rare」という名のアルバムに滲む、この時期の姿勢
2000年7月5日、つまり「SPooN」がリリースされたわずか1か月余り後には、アルバム『Rare』が発表されている[1]。「珍しい」「希少な」を意味するこのタイトルは、当時の小林建樹というアーティストの立ち位置を象徴する言葉のようにも読める。「祈り」という広く聴かれるヒット曲を持ちながら、同じ年のうちに「SPooN」のような感覚的で実験的な楽曲を送り出し、さらに『Rare』という名のアルバムをまとめる。この一連の動きからは、自分自身を「稀有な存在」として位置づけ、量産型のヒットメーカーに収まることを意図的に避けようとする姿勢が透けて見える。ヒットした後にどう動くかは、アーティストの個性が最も色濃く出るタイミングのひとつだ。安全な選択を続けることもできたはずの局面で、あえて色彩表現に振り切った「SPooN」を選び、それを『Rare』という名のアルバムに収めていく。この一連の判断の積み重ねこそが、小林建樹というアーティストを、単なる一発ヒットの人ではなく、長く語り継がれる個性として位置づけている理由なのだと思う。
参考リンク
- [1] DISCOGRAPHY 小林建樹 | UNIVERSAL MUSIC JAPAN
- [2] SPooN/小林建樹-カラオケ・歌詞検索 | JOYSOUND.com
- [3] 作品紹介☆ | 小林建樹オフィシャルサイト
- [4] 小林建樹 - Wikipedia
色や質感だけで伝わる感情があるように、家や土地にも、言葉にしきれない記憶の温度が残っています。
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