ページ作成日: 2026年7月3日
元にしたYouTubeリンク: https://www.youtube.com/watch?v=5h2TJbcVhfI
確認した動画: 桑田佳祐 - 悪戯されて(from Blu-ray/DVD『THE ROOTS〜偉大なる歌手讃曲に感謝〜』)(桑田佳祐公式)

大石セレクション:MVがいい ★★★★★

  • 曲がいい:★★★★☆
  • 歌詞がいい:★★★★☆
  • MVがいい:★★★★★

選定理由:この曲は音も言葉も十分に強いが、それでも主視点をMVに置いたのは、桑田佳祐自身が「松本清張原作のドラマや映画の予告編のようなビデオにしたい」という発案から企画をスタートさせ、広末涼子という「日本を代表する女優」を迎えて一本の短編サスペンス映画を作り上げたという、音楽ビデオの枠を超えた作り込みの強さゆえである[2][3]。歌詞を土台にしながらも、あえて歌詞をなぞらない架空の物語を新たに立ち上げた発想力が、この曲を一段深いところまで運んでいる。

昭和という時代が遺した、あの湿度のある夜の気配はどこへ消えたのだろう。深夜のラジオや古い喫茶店で流れる歌謡曲に耳を傾けるとき、私たちは懐かしさだけでなく、心の中に抱えていた「割り切れなさ」や「愛憎の影」を思い出す。桑田佳祐が2016年に発表した『悪戯されて』は、昭和の「ムード歌謡」への深い敬意から生まれた完成度の高いオマージュ作品である。WOWOW開局25周年特別番組のために書き下ろされ、シングル『君への手紙』のカップリングやアルバム『がらくた』に収録されたこの曲は、強烈なドラマ性をまとっている。本作のミュージックビデオ(MV)は、広末涼子が主演を務めて昭和の歌謡サスペンスドラマを再現しており、観る者をあの濃密な人間模様へと引きずり込む。本稿では、この『悪戯されて』の音楽と映像の魅力を紐解きながら、私自身の東京での記憶や、磐田に戻ってからの介護・不動産の現場で対峙する人生と家・土地の記憶を重ね合わせ、大人が過去を振り返り、今を聴き直すための物語として読み解いていきたい。

昭和歌謡の美学を再現する旋律と、広末涼子が演じる愛憎のサスペンス

『悪戯されて』を音楽的に特徴づけているのは、徹底して作り込まれた昭和ムード歌謡のサウンドデザインである。アコースティックギターの哀愁を帯びたつま弾きから始まり、木管楽器や金管楽器、そしてサックスが夜の霧のように絡み合うアレンジは、70年代の歌謡曲黄金期を強く想起させる。歌謡曲特有のドラマチックなストリングスや、情感たっぷりに響くギターのオブリガートも秀逸で、これらが単なる懐古的な意匠ではなく、楽曲の持つ哀切さを最大限に高める装置として機能している。桑田佳祐はこの曲において、メロディの美しさとともに、日本語の響きが持つ情緒的な美しさを丁寧に歌い上げている。桑田佳祐のボーカルは、いつものロックなシャウトを封印し、まるで物語の語り部、あるいは悲劇の主人公を演じるかのように、芝居がかった、そして艶っぽい表現に終始している。その歌声は、押しつけがましくない距離感を保ちながらも、大人の愛の虚無感や、運命に翻弄される女性の悲哀を劇的に浮かび上がらせる。

そして、この曲の魅力を語る上で欠かせないのが、広末涼子を主演に迎えたミュージックビデオの存在だ。桑田佳祐自身が「松本清張原作のドラマや映画の予告編のようなビデオにしたい」と提案して制作されたこの映像は、歌詞の世界観を土台にして構築された架空の人間ドラマである。広末涼子は、夜のクラブで働くホステスを熱演し、影のある美しい表情で男たちとの愛憎劇を演じきっている。広末涼子が演じるヒロインの瞳には、愛を求めながらも傷つき、それでもプライドを捨てられない大人の女性の複雑な心理が映し出されている。彼女のふとした視線の揺らぎや、グラスを持つ手の仕草一つひとつが、昭和という時代の夜の世界に生きた人々の息遣いを再現している。タキシードを身にまとい、怪しげな光が差し込むステージで歌う桑田佳祐の姿は、まるでそのドラマを静かに見守る傍観者のようだ。

この完璧なまでの「昭和歌謡サスペンス」の再現は、単なるお遊びではない。当時の日本人が歌謡曲という短い三分間のドラマに託した、決して明るいだけではない人生のダークサイドや、ままならない恋愛の切なさを、現代の技術と感性で最高純度に結晶化させたものである。私たちはその映像と音楽に触れるとき、どこか甘やかで、同時にひりひりとするような、大人のためのエンターテインメントの真髄を味わうことができるのだ。

東京の夜に交錯した人間関係と、何者かになりたかった若き日の記憶

この曲が漂わせる「夜の湿度」は、私の中に眠るかつての東京の記憶を強烈に呼び覚ます。昭和から平成へと移り変わる時代、あるいはまだ何者でもなかった若い頃、私は東京という巨大な都市の一角で日々を過ごしていた。何者かになりたくて、しかし自分の非力さに押しつぶされそうになりながら、仕事帰りに夜の街を歩いた。新宿や渋谷のネオン、あるいは少し外れた路地裏の静けさ。あの頃の東京の夜は、今よりもずっと暗く、そしてどこか危険で、大人たちの秘密めいた人間関係がいたるところで交錯しているように見えた。

大人になって知る人間関係は、若い頃に想像していたような綺麗ごとだけでは進まない。言葉の裏にある沈黙や、互いの都合が絡み合う複雑な距離感。そうした、割り切れない大人の関係性の中で、私たちは傷つき、あるいは誰かを傷つけながら、なんとか自立しようともがいていた。当時はとにかく前を走ることに必死で、周囲の景色や他人の心情に心を配る余裕などなかったかもしれない。しかし、そんな慌ただしかった日々の隙間に交わした言葉や、誰かと共有した静かな時間が、今になってどれほど愛おしく感じられるだろう。大人の人間関係におけるすれ違いも、時の流れがすべてを静かな記憶へと変えてくれた。『悪戯されて』に描かれるような劇的な裏切りや事件はなくとも、日々の生活の中には、言葉にできない小さなサスペンスや、静かな葛藤が常に存在していたように思う。

深夜の東京で、ビルの窓から漏れる明かりを見上げながら、「あの光の数だけ、他人に言えない人生のドラマがあるのだ」と考えたことを覚えている。桑田佳祐の歌う艶っぽいメロディは、そうした都会の片隅で踏ん張っていた自分自身や、当時出会った人々の、少し背伸びをした大人びた関係性の記憶と不思議なほどに重なり合う。今振り返れば、あの未熟で混沌とした夜の時間があったからこそ、今の自分の土台が作られたのだと、静かな肯定感を持って受け止めることができる。

磐田へ戻り、介護の現場で聴くシニアたちの「劇的な人生の物語」

やがて私は東京を離れ、地元の静岡県磐田市に戻った。現在は介護と不動産の事業を営んでいるが、特に介護の現場においては、日々、高齢者の方々の長い人生に向き合うことになる。私たちは普段、お年寄りの穏やかな笑顔や日々の暮らしのサポートに焦点を当てがちだが、彼ら一人ひとりの胸の奥には、昭和という激動の時代を生き抜いてきた、文字通り「劇的な人生の物語」が眠っている。高齢者介護の現場で聴く昔話は、教科書に載っている歴史とは全く異なる、個人の生々しい感情の記録だ。戦後の復興期や高度経済成長期を生き抜いてきた彼らの言葉には、時代そのものが持っていた熱量と陰影が刻まれており、話を聞くたびに人生の深さに圧倒される。

ある日、施設を利用されているシニアの方と静かに話をしていたときのことだ。普段は寡黙なその方が、ぽつりぽつりと若かりし頃の思い出を語り始めてくれた。それは、かつて東京のダンスホールで出会った人との忘れられない恋の話であり、親の反対によって引き裂かれた切ない結末だった。また別の方は、戦後の混乱期にビジネスで大成功を収め、しかし信頼していたパートナーに裏切られてすべてを失った経験を、まるで昨日のことのように語ってくれた。

それはまさに、『悪戯されて』のMVで繰り広げられるサスペンスや、昭和歌謡が描き続けてきた人間ドラマそのものだった。彼らの語る言葉には、小説や映画にも劣らない重みがあり、その人生の岐路における葛藤や選択が、今のその人を形づくっているのだと強く実感させられる。介護とは、単に肉体的なケアをすることではない。その人が心の中に大切にしまっている、時には哀しく、時には輝かしい人生の余韻に静かに耳を傾け、その尊厳を丸ごと受け止めることなのだと、この曲を聴くたびにあらためて深く思うのである。

古い家と土地が秘める、昭和という時代が生んだ家族の歴史

介護の仕事が「人の記憶」に向き合うものであるならば、私のもう一つの生業である不動産の仕事は、「空間の記憶」に向き合うものである。磐田周辺で相続や空き家の整理、実家じまいの相談を受けていると、築数十年を経た古い家々に足を踏み入れる機会が非常に多い。そこは単なる「土地と建物」という不動産商品ではなく、昭和から平成にかけて、一つの家族が紡いできた歴史がそのまま閉じ込められた場所である。実家の片付けを手伝う際、古い押し入れから出てくる家具や子供の成長記録など、生活の跡には家族の喜びや悲しみを受け止める器としての歴史が宿っている。実家じまいをすることは、その器に感謝を告げ、記憶を心に格納する儀式でもあるのだ。

家主が亡くなったり、施設に入所したりして空き家となった実家を整理するとき、残された遺品や部屋の佇まいから、かつてそこに流れていた生活の息遣いが伝わってくる。居間に置かれた古びたステレオ、引き出しの奥から出てくる昭和の歌謡曲のレコードや家族写真。そこには、かつて家族が集い、笑い合い、時には激しい衝突や悩みを抱えていた形跡が確かに残されている。

相続や不動産の整理において、親族間での話し合いがスムーズにいかないことは珍しくない。そこには、長年積み重なってきた家族間の愛憎や、言葉にできなかったわだかまりが潜んでいることが多いからだ。そうした現場に立ち会うとき、私は『悪戯されて』という曲が持つ、人間の「ままならなさ」に対する優しい眼差しを思い出す。誰もが懸命に生き、愛し、しかし時にはすれ違い、傷つけ合ってしまう。古い家や土地を整理するということは、そうした家族の複雑な記憶や歴史を一つひとつ紐解き、関係者全員が次のステップへ進むための心の整理を手伝うことでもあるのだ。

静かに胸に響く「悪戯されて」の余韻と、大人が過去と向き合う時間

桑田佳祐の『悪戯されて』は、なぜこれほどまでに私たちの心を惹きつけるのだろうか。それは、かつて昭和の時代に存在していた、人間の弱さや醜さをも包み込むような「歌の力」が、この曲の中に完全に再現されているからだと思う。完璧に整えられた現代のポップスにはない、少し泥臭く、しかしどこまでも人間味に溢れたムード歌謡の旋律は、聴き手の心の奥底にある傷跡や、過去の忘れられない瞬間にそっと寄り添う。

磐田の静かな夜、事務所で一人、あるいは移動中の車内でこの曲を聴くとき、私は東京での慌ただしかった日々や、介護・不動産の現場で触れてきた数々の人生の断片を思い出す。それらはすべて、私にとってかけがえのない財産であり、今を生きるための指針となっている。過去は単に過ぎ去ったものではなく、音楽のように、私たちの心の中に美しい余韻として残り続け、ふとした瞬間に今を生きる私たちを励ましてくれる。

大人になってから聴く音楽には、若い頃とは異なる深い響きがある。この『悪戯されて』がもたらす静かな夜の余韻に身を任せながら、自分のこれまでの歩みと、これから出会う人々の人生のドラマに、これからも誠実に向き合っていきたいと思う。

ATAWI MUSICは、音楽を消費するサイトではありません。曲をきっかけに、伝統への敬意から生まれた創造の記憶を読み直す場所です。