「瑠璃色の地球」という曲を、私はずっとシングルだと思い込んでいた。実際にはそうではなく、1986年、松田聖子の13枚目のアルバム『SUPREME』の最後に置かれた1曲だったという。あれほど知られた曲が、あえてシングルカットされなかったという事実を知ったとき、少し驚いた記憶がある。作詞は松本隆、作曲は平井夏美という名義だが、これは当時ビクター音楽産業の社員だった川原伸司が、所属の異なる歌手に楽曲を提供するために用いた変名だったそうだ。井上陽水「少年時代」の共作者でもある人が、大瀧詠一の推薦でこの曲を手がけたという経緯を知ると、一曲の背後にどれだけの人の判断と縁が重なっているかを、あらためて思う。2020年、その曲がリレコーディングされ「瑠璃色の地球 2020」として配信された。34年前の声と、2020年の声。同じ言葉、同じメロディーを、違う時間の自分がもう一度歌う。それは単なる再録音以上の、時間そのものを扱う行為のように、私には聴こえる。当時アルバムの最後に静かに置かれていた1曲が、40年近く経ってからあらためて選び直され、単独で世に出されるという巡り合わせにも、何か意味があるように思えてならない。松田聖子には無数の代表曲があり、その中にはシングルとして最初から時代の中心に据えられた曲も少なくない。そうした曲と比べると「瑠璃色の地球」は、当時は目立たなかった、いわば裏側の1曲だったとも言える。裏側にあった曲が、40周年という節目に表側へと呼び戻される。その巡り合わせの経緯を知ってから聴くと、この曲の響き方が少し変わって聴こえてくる。
シングルにならなかった曲、40周年に選ばれた曲
「瑠璃色の地球」がシングルカットされなかった理由は、松田聖子が家族との時間を大切にしていたためだと伝えられている。ヒットを最優先する選択をしなかったという、その一点だけでも、この曲の位置づけは他とは少し違う。それでも「瑠璃色の地球」はアルバムの顔となり、ミュージック・ビデオも制作され、収録アルバム『SUPREME』はオリコンで初登場1位、年間5位、その年唯一のミリオンセラーとなり、日本レコード大賞のアルバム大賞も受賞した。シングルにならなかったからこそ、ファンの間で長く語り継がれる曲になったという逆説を、この曲は体現している。2020年7月15日、デビュー40周年イヤー第2弾の配信シングルとして「瑠璃色の地球 2020」がリレコーディング版として届けられ、同年9月30日発売の40周年記念アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』にも収録された。急な配信決定だったと伝えられており、40周年という節目に、代表曲でも定番のヒット曲でもなく、この曲があらためて選ばれたことに、作り手側の意思のようなものを感じる。派手なヒット曲を並べる周年企画のなかで、あえてシングルにならなかった曲を主役に据えるという選択は、数字よりも思い入れを優先する判断のように映る。長く歌い続けてきたアーティスト本人が、自分自身の代表曲の中から何を選び直すかという行為そのものに、40年という時間の重みが表れているのだと思う。デビュー当時からアイドルとして数々のヒット曲を送り出してきた人が、40周年という区切りで真っ先に手を伸ばした先が、かつてシングルにすらならなかった1曲だったという事実は、時間の経過とともに、本人の中で曲の価値の順位が入れ替わっていったことを示しているようにも見える。ヒットチャートの数字では測れない部分に、いちばん大切なものが残っていたということなのかもしれない。
環境への祈りが、そのまま今に響く
1986年当時、深刻化する環境破壊への危機感を込めて作られたと伝えられるこの曲は、「ひとつしかない私たちの星を守りたい」という祈りに近い視点を持っていたという。その視点は、2020年という時代にそのまま重ねてもさほど違和感がない。むしろ34年経っても古びていないことのほうが、静かに重く感じられる。編曲は当時、武部聡志が手がけたとされ、2020年版でも大きく骨格を崩さず、声そのものの変化を前面に出す作り方をしているように聴こえる。若い頃の声には若い頃の透明さがあり、40周年を迎えた声には、その透明さとは違う、経てきた時間の厚みのようなものが乗っている。同じメロディーでありながら、歌う人の年輪によって曲の手触りが変わって聴こえるところに、この2020年版の意味があるのだと思う。配信という形式そのものが、CD時代の「瑠璃色の地球」とは違う届き方をした点も、34年という時間の変化を静かに物語っている。かつてはアルバムを手に取り、針を落とすか再生ボタンを押すかして出会うしかなかった曲が、今はスマートフォン一つで、思い立った瞬間に呼び出せる。曲そのものは変わらなくても、それを取り巻く聴き方や届き方がまるごと入れ替わったことも、この曲が背負っている34年という時間の一部なのだろう。1986年当時、この曲を聴いていた人の多くは、レコードやカセットテープの前で、あるいはテレビの歌番組で、決まった時間に決まった場所で音楽と向き合っていたはずだ。今は通勤の途中でも、家事をしながらでも、ふと思い出した瞬間に呼び出せる。聴く環境がここまで変わったにもかかわらず、曲そのものの持つ祈りのようなメッセージが色あせていないという事実に、この曲の芯の強さを感じる。
東京で語った言葉を、磐田でもう一度聴く
東京で働いていた頃、自分がまだ何も知らないうちに口にした言葉がいくつもあった。仕事のこと、家族のこと、将来のこと。当時は本気で言ったつもりでも、今振り返ると、あの言葉の意味を自分自身がまだよくわかっていなかったのだと気づく。「瑠璃色の地球 2020」を聴きながら思うのは、同じ言葉を34年後にもう一度発するという行為の重さだ。歌詞そのものは変わらない。変わったのは、それを歌う人が背負ってきた時間だけだ。それだけで、聴く側の受け取り方まで変わってしまう。磐田に戻り、家や土地の相談を日々受けていると、似た構造に何度も出会う。何十年も前に決めた住まいの形、家族との約束、土地への向き合い方。当時の判断は当時なりに正しかったはずなのに、年月を経て見返すと、まったく違う意味を帯びて見えてくることがある。それは判断が間違っていたということではなく、同じ言葉や決断が、時間という膜を通すことで別の深みを持つということなのだと思う。ある相談者は、若い頃に建てた家をどうするか悩みながら、「あの頃はこれが正解だと信じていた」と話してくれたことがある。正解かどうかを今さら問うことに意味はなく、むしろその言葉を今もう一度自分の口で語り直せるかどうかに、価値があるように感じる。「瑠璃色の地球 2020」がやっていることも、突き詰めればそれと同じではないかと思う。仕事柄、家や土地の書類を挟んで、何十年も前の判断の記録に触れることが多い。当時の印鑑や署名を見ていると、その一筆に込められていたはずの覚悟のようなものが、紙の上からうっすらと伝わってくる瞬間がある。判断の正しさよりも、その判断を今どう受け止め直すかのほうが、結局は大事なのだと、この仕事を通じて何度も教えられてきた。
写真とともに募られた、それぞれの記憶
「瑠璃色の地球 2020」のミュージック・ビデオは、松田聖子本人の写真を多数使って構成されたと伝えられている。それと合わせて、ファンから「大切な思い出」のエピソードと写真を募る企画も同時に動いたという。1曲の再録音が、単に音源を新しくするだけでなく、聴き手それぞれの記憶を掘り起こす仕掛けとしても機能したことになる。誰かにとっては学生時代に流れていた曲であり、誰かにとっては子どもと一緒に口ずさんだ曲であり、誰かにとっては家族を見送った時期に耳にした曲だったかもしれない。曲自体は変わらないのに、それぞれの記憶と結びつくことで、まったく違う個人史の一部になる。この曲がリレコーディングという形で戻ってきたとき、聴き手の側にも「もう一度思い出す」という作業が静かに促されたのだと思う。ATAWI MUSICでこの曲を取り上げるのも、突き詰めればそういう、記憶を呼び起こす行為への関心からだ。私にとっての「瑠璃色の地球」は、東京で働いていた時期の記憶と、磐田に戻ってからの記憶の、両方にまたがって存在している。曲は同じでも、聴くたびに立ち上がる風景が違うというのは、考えてみれば不思議なことだ。ファンから寄せられたという「大切な思い出」のエピソードも、きっと一つ一つがまったく違う場所、違う時期、違う人間関係を背景にしているはずだ。それでも同じ曲を通して、見知らぬ誰かの記憶と自分の記憶が、どこかでゆるやかに重なり合っているような感覚がある。曲というものが持つ、そういう不思議な媒介の力を、あらためて実感させられる。
同じ地球を、もう一度見つめ直すということ
34年前に見上げていた空と、今見上げている空は、物理的には同じ地球のはずだ。それでも、若い頃に見た景色と、齢を重ねてから見る同じ景色とでは、目に映るものの意味が違ってくる。「瑠璃色の地球 2020」が私に静かに問いかけてくるのは、そのことだ。オリジナルを歌った聖子と、2020年に歌い直した聖子は、同一人物でありながら、間にある34年という時間の分だけ、地球への向き合い方が変わっているはずだ。家の裏の畑を眺めながら、自分もまた、20代の頃と同じ土地を、まったく違う目で見ていることに気づく瞬間がある。子どもの成長、親の老い、仕事で見てきたいくつもの家族の形。それらすべてを通過したあとで、同じ土地、同じ空、同じ地球を、もう一度見つめ直す。この曲がリレコーディングというかたちを取った理由は、案外そういう、ごくまっとうな時間の重ね方の中にあるのかもしれない。派手な改変を加えず、同じ言葉、同じメロディーのまま、歌う人の時間だけを更新する。その静けさが、かえってこの曲の一番の説得力になっているように、私には感じられる。34年前に鳴らされた祈りに近いメッセージが、形を変えずに今もそのまま届くという事実そのものが、地球という存在の変わらなさと、そこに生きる私たちの変わりようを、同時に照らし出しているのだと思う。土地や家の相談を受ける仕事をしていると、変わらないものと変わっていくものの境目を、日々意識せざるを得ない。地面はそこにあり続けるが、そこに住む人の暮らしは絶えず移り変わっていく。「瑠璃色の地球 2020」を聴きながら、私はいつも、その変わらなさと変わりようの間に立っているような気持ちになる。34年という歳月は、決して短くはない。それでも、もう一度同じ場所に立ち返って歌い直せるということ自体が、この曲の、そして私たちの暮らしの、ひとつの救いのように思える。「瑠璃色の地球 2020」を聴き終えたあと、しばらく画面を眺めたまま動けなくなることがある。34年前の記憶と、今日の生活が、一本の曲の中で静かに手をつないでいるような感覚だ。それは何かを解決してくれる音楽ではない。ただ、変わらずそこにあり続ける地球のように、こちらが立ち返るたびに、同じ場所で待っていてくれる音楽なのだと思う。