「It's Who We Are」という一節を、大石浩之は何度も同じ場面で思い出す。誰かに何かを説明し終えた直後、相手が完全には納得していないとわかっていながら、それでも自分の判断を変えなかった場面だ。磐田で家や土地の相談を受ける仕事をしていると、正解が一つに定まらない選択を迫られることが多い。都市部で通用するやり方をそのまま当てはめれば楽だが、この土地にはこの土地の事情があり、家族にはその家族だけの事情がある。Nulbarichのこの曲は、リード・ボーカルのJ.Q(ジェレミー・クアルタス)を中心に固定編成を持たないという、日本のバンドとしては珍しい体制を選んだグループが、デビュー間もない時期にあえて「これが自分たちだ」と言い切った曲だと伝えられている。曲名がそのままEPのタイトルにもなっていることからも、内輪向けの強がりではなく、外に向けた宣言だったのだろうと聴こえてくる。英語詞を基調にファンクやソウル、アシッドジャズの気配を纏ったそのサウンドは、聴くたびに、迷いを抱えたまま前に進むための背中の押し方を思い出させる。東京での日々にも、磐田に戻ってからの日々にも、静かに重なってくる曲だ。声高に主張するのではなく、鳴らし続けることで存在を示すという在り方が、いつのまにか自分の判断基準の一部にもなっていた。
EPのタイトル曲として生まれた宣言
「It's Who We Are」は、2017年5月24日に発表された1stEP『Who We Are』に収録された楽曲で、のちに2018年3月7日発売の2ndアルバム『H.O.T』にも改めて収められている(参考リンク参照)。EPは邦楽チャートで最高14位を記録したとされ、ラジオでのオンエアも重ねられていたようだ。バンドとしてまだ日の浅い時期に、自分たちの立ち位置をそのまま曲名として掲げるのは、相応の覚悟が要ったはずだ。J.Qを中心に、演奏形態に応じてメンバーが入れ替わるという体制は、当時の日本のバンドシーンでは珍しい選び方だったと言われている。決まった顔ぶれを固定しないという判断は、一見すると不安定に映るかもしれない。けれどそれは、外側の慣習に自分たちを合わせるのではなく、自分たちにとって都合の良い形を先に決めてから、そこに音楽を乗せていくという順番の表れだったのではないかと想像する。「これが自分たちのやり方だ」という言葉は、そうした選択の積み重ねの上にようやく置ける言葉だったのだろうと、この曲のたたずまいを聴きながら思う。
2ndアルバム『H.O.T』は、オリコン週間アルバムランキングで最高7位を記録し、バンドにとって初めてのトップ10入りを果たしたと伝えられている。1stEPのリード曲だった「It's Who We Are」が、アルバムの中でも早い位置に改めて配置されたことには、意味があったのではないかと想像する。デビュー直後に掲げた宣言を、実力で裏づけるところまで漕ぎ着けた時点で、もう一度同じ曲を鳴らし直す。それは過去の自分を否定せず、むしろその時の判断が間違っていなかったことを、後から証明してみせるような構成に思える。最初に立てた旗を、途中で降ろさずに持ち続けること。派手な方針転換をせず、地道に同じ軸を延ばしていくことでしか得られない信頼が、この曲の再録には表れているように聴こえる。
洋楽とも邦楽ともつかないグルーヴ
音楽メディアのレビューでは、この曲を含むEP『Who We Are』について、洋楽・邦楽という区分けそのものが意味を持たなくなるほど洗練されたサウンドだと評されていたようだ。実際に聴いてみると、軽やかに刻まれるギターのカッティングと、じわりと広がっていくボーカルのレイヤーが、浮遊感のようなものを生んでいるように感じられる。英語詞と日本語詞が同じ曲の中で違和感なく行き来する構成も特徴で、その滑らかさ自体が「日常からの逃避」というテーマを音として体現しているとする評もある。ファンクやソウル、アシッドジャズを土台にしたグルーヴは、力を込めて主張するというより、力を抜いた場所からじわじわと効いてくるタイプの説得力を持っている。この曲はのちにオーディオテクニカのワイヤレスイヤホンのCMソングにも起用されたと報じられており、バンドを象徴する一曲として長く聴かれ続けてきたことがうかがえる。声高に叫ばなくても、鳴らし続けていれば届く人には届く。そんな在り方を、この曲のグルーヴそのものが証明しているように聴こえる。
この曲を最初から最後まで通して聴くと、サビに向かって音数が急激に増えていくわけではないことに気づく。むしろ抑制の効いたアレンジのまま、ボーカルのニュアンスだけがじわじわと熱を帯びていく構成に聴こえる。派手なブレイクや大仰な転調で押し切るのではなく、同じグルーヴを丁寧に磨き続けることで説得力を積み上げていくやり方は、この曲が歌っている「自分たちのやり方」そのものの音楽的な実践のようにも思える。声を張り上げて主張するのではなく、一定のトーンを保ったまま鳴らし続けることで、聴き手の側に少しずつ染み込んでいく。この曲が長く象徴的な一曲であり続けている理由の一端は、こうした抑制の効いた作りの中にあるのではないかと感じている。
初めてこの曲を耳にしたのは、たしか移動中の車の中だったと記憶している。何気なくラジオから流れてきたその瞬間、これは邦楽なのか洋楽なのか、一瞬判断がつかなかったことを覚えている。判断がつかないというのは、決して悪い意味ではない。むしろ、どちらの枠にも収まらない独自の座標を持っているということの証だったのだろう。以来、この曲は自分の中で特別な位置を占めるようになった。派手に主張するわけではないのに、一度耳に残ると簡単には離れていかない。そういう曲は、案外多くない。
周囲の物差しを持ち込まないという判断
東京で働いていた頃、大石浩之には、周囲のやり方に合わせることこそが安全だと思い込んでいた時期があった。会議の進め方も、資料の体裁も、断り方の作法も、その場の空気を最優先にして選んでいた。けれど振り返ってみると、後々まで自分の中に残っている仕事は、決まって自分なりのやり方を最後まで押し通したものだった。周囲と違う判断をすることには、そのたびに小さな緊張が伴う。それでも、他人の物差しをそのまま借りてきただけの仕事からは、自分にしか出せない結果は生まれてこない。この曲が鳴らしているのは、そうした個人の働き方にもそのまま重なる、静かな励ましのように聴こえる。誰かの真似で得られる評価は長続きしないが、自分たちのやり方を貫いた末に得られる評価は、簡単には揺らがない。英語詞と黒人音楽由来のサウンドという、当時の日本の市場では決して近道ではなかった選択を貫いてきたバンドの姿は、この曲名をそのまま生きているように映る。
当時の自分は、周囲の期待に応えることと、自分の考えを通すことを、対立するものだと思い込んでいた。どちらかを選べば、どちらかを失うと考えていた。けれど実際には、自分の判断に責任を持ち続けている人の方が、結果的に周囲からの信頼を長く得られるのだと、あとになって気づいた。目先の空気を読んで合わせるよりも、少し不器用でも自分の言葉で説明し続けることの方が、結局は相手にとっても分かりやすい。「It's Who We Are」というタイトルの潔さは、そうした遠回りの末にたどり着く納得と、どこか似ている気がしてならない。
家に帰ってからも、その緊張が完全に消えるわけではなかった。家族との時間の使い方、休みの日の過ごし方、老いていく親との距離の取り方。そこにも、世間一般の「正しいとされるやり方」は無数に転がっている。育児書の通りにやるべきなのか、地域の慣習に従うべきなのか、自分たちの生活のリズムを優先していいのか。答えが一つに定まらない問いを前にするたびに、結局は自分たちの家にとっての正解を、自分たちで決めるしかないのだと思い知らされる。それは孤独な作業でもあるが、同時に、自分たちの暮らしを他人任せにしないという意味では、誠実な作業でもある。「It's Who We Are」というタイトルは、バンドという集団の話でありながら、こうした一つひとつの家庭の内側の判断にも、静かに接続してくる言葉だと感じている。
磐田の家と土地に、自分の判断基準を持ち込む
磐田で家や土地の相談を受けていると、地域の慣習と、自分が正しいと信じる判断との間で、どちらを優先すべきか迷う場面に何度も出会う。地元の空気を無視すればうまくいかないが、地元の空気に流されるだけでも、相談者にとって本当に必要な選択を見誤ることがある。土地には土地の記憶があり、家族には家族の事情がある。それを丁寧にくみ取りながらも、最終的には自分が正しいと信じるやり方を貫くこと。それがこれまでの仕事の中で、いちばん頼りになってきた基準だった。この曲を聴くたびに、その基準を思い出させてもらっている。「It's Who We Are」は、バンドにとっての自己定義の言葉であると同時に、この土地でこの仕事を続ける自分自身への、静かな問いかけでもある。誰かのやり方をなぞるのではなく、自分たちのやり方で、目の前の家族に向き合っていく。それが結局、いちばん遠回りのようでいて、いちばんの近道なのだと、この一曲がいつも教えてくれる。
親の代から続く土地の話をするとき、決まって「昔からこうしてきた」という言葉が出てくる。その言葉には尊重すべき重みがある一方で、そこに寄りかかるだけでは、いま目の前にいる家族の実情を見落としてしまうこともある。慣習をそのまま踏襲するのでも、慣習を頭ごなしに否定するのでもなく、その両方に耳を傾けたうえで、最後は自分たちの言葉でもう一度組み立て直す。それは決して華々しい仕事ではないが、地道に積み重ねていく以外にたどり着けない場所があると、この仕事を続けてきて実感している。Nulbarichが固定編成という当たり前の形を疑い、自分たちなりの体制を選び取ったように、この土地での仕事にも、外から借りてきた正解ではなく、自分たちで確かめてきたやり方がある。それを一つずつ積み上げていくことが、結局は家族という単位を守ることにつながっていくのだと、この曲を聴くたびに思う。
仕事を終えて家に戻り、家族と過ごす時間の中でこの曲をかけることがある。子どもの前でわざわざ解説するようなことはしないが、繰り返し流れるうちに、いつか誰かの中に何かが残るかもしれないと思っている。押しつけるのではなく、ただそこに在り続けること。自分たちのやり方を静かに貫き続けている音を、日常の中に置いておくこと。それ自体が、次の世代への一つの伝え方なのかもしれない。「It's Who We Are」というタイトルは、遠く離れた国のバンドの言葉でありながら、この家の、この土地の、日々の選択の中にも、確かに息づいている。
ATAWI MUSICは、音楽を消費するサイトではありません。曲をきっかけに、自分たちのやり方を貫いてきた記憶を読み直す場所です。