「ain't on the map yet」、まだ地図に載っていない。この言葉が指しているのは、単に道に迷っているという意味だけではないはずである。自分の居場所が、まだ世界のどこにも記録されていない。誰かに証明してもらう場所が、まだない。そういう、存在そのものの不確かさを歌った1曲だと感じる。地図というのは、すでに誰かが確認し、名前をつけ、線を引いたものの集合である。地図に載っていないということは、まだ誰にも認められていない、まだ名前のない場所を、自分の足だけで歩いているということだ。不安と同時に、まだ誰にも侵されていない自由もそこにはある。この曲の言葉には、その両方の感情が同居している。
2ndアルバム『H.O.T』の中で
「ain't on the map yet」は、2018年3月7日にビクターエンタテインメントから発売されたNulbarichの2ndアルバム『H.O.T』に収録されたリード曲である[1]。全13曲構成のアルバムのうち9曲目に置かれている。作詞はJeremy Quartus(JQ)とRyan Octaviano、作曲はJeremy QuartusとKent.Aroが手がけたとされる[2]。JQはバンドの中心人物であり、ボーカルとサウンドの舵取りを担う存在だ。アルバムタイトルの『H.O.T』は、表向きは「熱い」を意味しながら、裏テーマとして「HANG ON TIGHT」の頭文字を採っており、聴き手に向けて「しっかりつかまっていて」と呼びかける意図が込められていたと、EYESCREAMのインタビューでJQ自身が語っている[3]。2017年は「インプットが尋常じゃなく多かった」年であり、そこで得たフレッシュな感情を忘れないうちにメモするような感覚でこのアルバムを作ったとも述べている[3]。Skreamのレビューでは、「ain't on the map yet」はデビュー時のムードを漂わせながら爽やかで、JQの歌声が優雅に響き渡るナンバーだと紹介されている[4]。
1stアルバムから1年半ほどの間隔で発表されたこの2作目は、Nulbarichがまだキャリアの初期段階にあった時期の作品である。デビューしたばかりのバンドが、自分たちの居場所をまだ確信できていないという歌を、あえてこの時期にリード曲として出したこと自体、正直な創作態度だと思う。成功を確信したふりをするのではなく、まだ何者でもない不安定さを、そのまま音楽にする。その率直さが、この曲に独特の説得力を与えている。
グルーヴと歌声がつくる、乾いた高揚感
曲そのものの魅力にも触れておきたい。JQのルーツには90年代ヒップホップがあり、バンドメンバーの生演奏をいったんMPCに取り込んでサンプリングするという制作手法が、このアルバムの随所に見られるとJQ自身が語っている[3]。「ain't on the map yet」にも、そうした生とサンプリングの間を行き来する質感が漂っている。ソウル、ファンク、アシッドジャズを下敷きにしながら、より生バンドらしい厚みを増したのがこの2ndアルバムの特徴だとされ[5]、この曲でもグルーヴを支えるリズム隊の手触りと、JQの伸びやかな歌声が拮抗しながら進んでいく。派手にサビで爆発するタイプの曲ではなく、じわりと高揚感が積み上がっていくタイプの構成で、聴くたびに新しい層が耳に入ってくる。バンド全体がフェスのステージを強く意識していた時期の作品でもあり、身体を動かしたくなるビートの強さは、まさにその意識の反映だろう。曲としての完成度は高く、何度もリピートしたくなる強さを持っているが、後述する歌詞の持つ普遍性と比べると、主視点として選ぶにはもう一歩という印象を持った。
地図にない場所を歩く不安
東京で働き始めた頃、自分がこの先どこに向かっているのか、まったく見えていなかった時期がある。先輩たちはそれぞれのキャリアの地図を持っているように見えたのに、自分だけがまだ、何の地図も持たずに歩いているような感覚があった。あの頃の不安を、今振り返ると、決して悪いものだったとは思わない。地図がないということは、誰かが決めた道を歩かされているのではなく、自分自身で道を作っていける自由を持っているということでもあったからだ。
この曲の歌詞を丸ごと引用することはしないが、そこに描かれているのは、大切な相手や居場所を確かなものとして掴みきれない、不安定な心理状態だと読める。地図に載っていないという比喩は、恋愛の相手に対する不確かさとしても、自分自身のキャリアや存在に対する不確かさとしても、どちらの読み方も成立する余白を持っている。歌詞情報サイトの解説では、この曲に「砂上の城」のような儚さや、光を求めて進んでいくイメージが織り込まれていると紹介されている[6]。確かなものが何もない場所で、それでも前に進もうとする。その揺れ動きこそが、この歌詞の核だと思う。キャリアの初期、あるいは人生の転換期には、誰しもこの「地図にない場所」を歩く時期を経験する。この曲が描く不安と孤独は、決して特別なものではなく、何かを新しく始めようとするすべての人が通る道なのだと思う。地図に載る日が来るかどうかは分からないが、載っていないからこそ、自分だけの足跡をそこに刻める。この曲を聴くと、そういう前向きな読み替えができるようになる。説明しすぎない言葉の選び方だからこそ、聴き手それぞれが自分の状況に引き寄せて解釈できる。それが、この歌詞の一番の強さだと感じる。
「ナルバリくん」が歩く、少年の妄想とリアル
公式MVは2018年2月7日に公開された[7]。rockin'on.comが伝えたところによれば、このMVは楽曲を口ずさむ少年の妄想とリアルが交錯するストーリー仕立てになっており、Nulbarichの定番キャラクターである「ナルバリくん」が登場し、歌詞とリンクする場面や、少年のダンスシーンが盛り込まれているという[8]。実際に映像を見ると、現実の少年の日常と、彼の空想の中の世界とが行き来する構成になっており、地に足のついていない浮遊感が、歌詞の「まだ地図にない」という感覚と響き合っている。ただし、ストーリーの軸はあくまで少年個人の妄想に置かれており、曲が持つ普遍的なテーマ性を映像がそのまま深く掘り下げているというよりは、軽やかな寓話として楽曲に寄り添う形に近い。マスコットキャラクターの起用も含め、親しみやすさを優先した演出であり、見る人を選ばない仕上がりだと思う。曲や歌詞の持つ切実さと比べると、映像のトーンはやや軽やかな方向に振れている。MVを見ることで曲の解釈が大きく広がるというよりは、曲の親しみやすさを補強するタイプの映像だと感じたため、MVがいいの評価は星3とした。
磐田という、地図の上の場所から
東京を離れ、磐田に戻ってきたとき、ある意味で自分は「地図に載っている場所」に帰ってきたはずだった。生まれ育った土地、慣れ親しんだ景色。それでも、家や土地の相談という新しい仕事を始めたとき、その仕事における自分の立ち位置は、まだ何の地図もない状態だった。慣れた土地の上で、まったく新しい道を切り拓いていく。その感覚は、この曲が歌う「まだ地図に載っていない」感覚と、驚くほど重なる。
相談に来られる方々の多くも、人生のどこかの地点で、地図にない場所を歩む決断を迫られている。実家をどうするか、これからどこで暮らすか。答えの決まった地図はどこにもない。それでも一歩ずつ歩いていくしかない。この曲が持つ、不安と自由が同居した言葉は、そうした決断の場面に立ち会うたびに、静かに背中を押してくれる。
参考リンク
- [1] Nulbarich「H.O.T」- ビクターエンタテインメント
- [2] ain't on the map yet 歌詞 - 歌ネット
- [3] Nulbarichが2ndアルバム『H.O.T』をリリース。ボーカルJQに聞く今作とバンドの未来について - EYESCREAM
- [4] Nulbarich – ain't on the map yet (Official Music Video) - Skream!
- [5] Nulbarich(ナルバリッチ)の2ndアルバム『H.O.T』は音楽の魔法のよう
- [6] nulbarich【ain't on the map yet】《歌詞》〈和訳〉 - Blue Monday
- [7] ain't on the map yet (Official Music Video) - Nulbarich Official Site
- [8] Nulbarich、少年の妄想とリアルが交錯するストーリー仕立ての新曲MV公開 - rockinon.com
音楽が地図にない場所を歩く不安と自由を歌うように、家や土地にも、答えの決まっていない選択がついて回ります。
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