「Handcuffed」という単語を辞書で引けば、答えは一つしか出てこない。手錠をかけられた、自由を奪われた、身動きが取れない。だがこの曲がアルバムのどのあたりに置かれ、どんな流れの中で鳴らされているかを知ると、タイトルの持つ意味合いは少しずつずれていく。大石浩之がこの曲を意識して聴き直すようになったのは、磐田で家や土地の相談を受ける仕事に落ち着いてからのことだ。誰かに強いられたわけではないのに、自分で選んだ責任に縛られている感覚。そこには不満だけでなく、どこか安堵に似た感情も混じっている。会社に属していた頃の不自由と、家族や土地を背負う今の不自由は、性質がまるで違う。前者は与えられた枠組みに合わせる不自由で、後者は自分で選び取った枠組みの中にいる不自由だ。「Handcuffed」という曲が鳴らすグルーヴには、力んだ抵抗も、投げやりな諦めもない。むしろ、その不自由さの輪郭を丁寧になぞりながら、その中でどう息をするかを探っているような余裕がある。手錠をはめられていても、選び取ったものはある。この曲を繰り返し聴くたびに、その一文がまた少しだけ違う手触りで戻ってくる。若い頃は、不自由というものを一様に嫌うべきものだと考えていた。組織のルールも、家族の期待も、土地に根を張ることで生まれる制約も、すべて自由を削るものだと感じていた時期があった。だが年を重ね、いくつもの手錠を自分の意志で選び取ってきた今になって振り返ると、不自由の中にこそ、自分がどういう人間であるかを示す選択が詰まっていたのだと気づかされる。この曲がタイトルに選んだ言葉の重さを、聴くたびに少しずつ違う角度から受け取り直している。
『H.O.T』というアルバムの中の一曲として
「Handcuffed」は、2018年3月7日にビクターエンタテインメントから発売されたNulbarichの2ndアルバム『H.O.T』に収録された楽曲で、全13曲中5曲目に置かれている(参考リンク参照)。このアルバムはオリコン週間アルバムランキングで最高7位を記録し、バンドにとって初めてのトップ10入りを果たしたと伝えられている。デビューから間もない時期に手にした結果としては、決して小さな成果ではなかったはずだ。アルバムタイトルの「H.O.T」には、ボーカルのJ.Qによれば「自分たちにとって今一番アツい」という意味と、「先を目指すからついて来てほしい」という意味が重ねられていたという(参考リンク参照)。前を向く宣言のようなアルバムの中に、「手錠」という不自由を思わせる曲名が置かれていることに、当初は少し違和感を覚えた。だが聴き込むほどに、その違和感こそがこのアルバムの奥行きを支えているのだと感じるようになった。前進を掲げるアルバムだからこそ、その足元にある不自由さから目を逸らさない曲が必要だったのではないか。トップ10という結果は、バンドにとって一つの通過点でしかなかったはずだが、その通過点にたどり着くまでの過程には、まだ何者でもなかった時期特有の不安と、それでも前に進もうとする勢いの両方があっただろうと想像する。「Handcuffed」というタイトルは、そうした過渡期にあったバンドの内側の感覚を、そのまま言葉にしたものだったのかもしれない。アルバムの中盤に位置するこの曲は、序盤の勢いのある楽曲群からいったん温度を落とし、聴き手を少し立ち止まらせる役割を担っているようにも聴こえる。前進を歌う曲が続くアルバムの中で、あえて不自由というテーマに向き合う一曲を挟み込む構成には、勢いだけで押し切らないバンドの慎重さが表れているように感じられる。
音楽メディアのレビューでは、『H.O.T』がソウルやファンク、アシッドジャズといった1stアルバムからの語法を引き継ぎながら、よりバンドらしい一体感を持った作品に仕上がっていると評されていたようだ(参考リンク参照)。「Handcuffed」もその流れの中にある一曲で、力を込めて押し出すのではなく、じっとりと粘るようなグルーヴを軸に据えているように聴こえる。派手なサビで解放感を演出するのではなく、抑えたトーンのまま曲全体が進んでいく構成は、「不自由」というテーマを音そのもので体現しているようにも思える。叫ばず、暴れず、それでも確かに熱を持って鳴っている。そういう抑制の効いた音の作り方に、この曲の説得力があるのではないかと感じている。英語詞を基調にした歌い回しも、日本語の情念とは違う乾いた質感を持っていて、不自由さを湿った嘆きではなく、どこか涼しい距離感を保ったまま描いているように聴こえる。この距離の取り方こそが、Nulbarichというバンドの個性そのものなのだと思う。固定編成を持たず、楽曲や状況に応じてメンバーが入れ替わるという当時としては珍しい体制を選んできたバンドだからこそ、一つの型に縛られない柔軟さと、それでも譲れない核となる音の質感の両方を持ち合わせているのだろうと感じる。不自由をテーマにした曲を、不自由な体制の中からではなく、自ら選び取った自由な体制の中から生み出しているという事実にも、この曲の両義性が重なって聴こえてくる。
抑制されたグルーヴが運ぶもの
この曲を通して聴くと、ビートやベースラインが終始一定のテンションを保ち続けていることに気づく。感情の高まりに合わせて音数を増やし、盛り上げていくという定石をあえて避けているように聴こえる箇所が多い。むしろ抑えたリズムの上で、ボーカルのニュアンスだけがわずかに揺れ動くことで、聴き手の側に緊張と弛緩を感じさせる作りになっているように思う。派手な展開を避け、同じグルーヴを丁寧に鳴らし続けることで説得力を積み上げていくというやり方は、「Handcuffed」というタイトルが暗示する不自由さと、奇妙なほど噛み合っている。自由に暴れることを選ばず、決められた枠の中で最大限の表現を探ること。その姿勢自体が、この曲のテーマと音楽的な構造とを一致させているように感じられる。繰り返し聴くほどに、粘るようなグルーヴの中にわずかな抜け道が見えてくる瞬間があり、そこにこの曲のもっとも聴きどころとなる部分があるのではないかと思っている。
不自由を音で描くとき、方法は大きく二つに分かれるのではないかと思う。一つは、不自由そのものを激しく叩きつけるように鳴らし、感情の爆発として表現する方法。もう一つは、不自由の輪郭を静かになぞりながら、その内側でどう息をするかを聴かせる方法だ。「Handcuffed」は明らかに後者を選んでいる。抑制の効いたアレンジは、聴き手に向かって主張を押しつけるのではなく、同じ部屋の中でそっと寄り添うような距離感を保っている。派手な曲であれば一度聴いて忘れてしまうこともあるが、この曲のように控えめな熱を持った曲は、日常のふとした瞬間に何度も思い出される。仕事の合間や車を運転している時間に、ふとこのグルーヴが頭の中で鳴り出すことがある。それは、この曲が主張してくるのではなく、聴き手の側から歩み寄っていく余白を残しているからなのだろうと思う。曲の後半、ボーカルのフレーズが少しずつ重なりを増していくように聴こえる箇所がある。そこでは、抑えられていた熱がわずかにあふれ出すようで、これまで静かに保たれてきた緊張がふっとゆるむ瞬間が訪れる。派手な解放ではなく、あくまで抑制の範囲内で示されるその変化にこそ、この曲の芯にある感情の揺れが表れているように聴こえる。
あえて差し出した手、という読み方
「Handcuffed」というタイトルは、誰かに一方的に拘束された状態を指すだけでなく、自分から手を差し出して繋がれることを選んだ、という能動的な意味合いでも読める言葉だと思う。東京で働いていた頃、会社という組織に属することは、大石浩之にとってある種の手錠だった。決められた時間に出社し、決められたルールの中で動く。裁量の外にあることは数え切れないほどあった。それでも、その枠組みの中でどんな仕事の仕方をするか、誰とどう関わるかは、最後まで自分で選べる余地として残っていた。完全な自由などどこにもない。けれど不自由の中にも、選び取れる部分は必ず残っている。この曲のグルーヴに漂う静かな余裕は、そうした矛盾した感情を、力むことなく両立させているように聴こえる。入社した当初は、与えられた枠組みそのものに息苦しさを感じていた。だが数年が経つ頃には、その枠組みの中でどう振る舞うかを工夫することの方に、むしろやりがいを見出すようになっていった。不自由という前提を変えられないのなら、その内側で何を選ぶかに意識を向けるしかない。今にして思えば、それは諦めではなく、限られた条件の中で自分なりの答えを探すという、ごく実践的な生き方の転換だったのだろう。
結婚や家族という関係も、見方によっては自ら望んで身につける手錠だ。自由の一部を手放すことで得られる安心感、繋がっているからこそ引き受ける責任。それを不自由だと嘆くのではなく、自分で選び取った形として引き受けること。「Handcuffed」というタイトルの両義性は、そうした人生の選択の場面にも、静かに重なってくる。誰かと生活を共にするということは、自分一人では下せたはずの決断を、二人で、あるいは家族全員で下すことに変わるということでもある。その不便さを窮屈だと感じる瞬間は今でもある。それでも、一人では抱えきれなかった時間を分かち合えることの方が、長い目で見れば得られたものの方が大きいと感じている。手を差し出して繋がれるという選択は、その瞬間には不自由に見えても、後から振り返れば自分を支えてくれた選択だったと気づくことが多い。子どもが生まれてからは、自分の時間の使い方が根本から変わった。かつては自分一人の裁量で決められた休日の過ごし方も、今では家族の予定を中心に組み立てるようになっている。それを窮屈だと感じないと言えば嘘になる。それでも、その不自由の中でしか味わえない充実感があることを、日々の暮らしの中で少しずつ実感している。
磐田で引き受ける、それぞれの手錠
磐田で家や土地の相談を受けていると、家族というつながりが、時に手錠のように感じられる場面に出会う。親の介護、実家の維持、相続の責任。それらは望んで背負ったものであっても、時に重く、自由を奪うもののように感じられることがある。それでも、その手錠を外そうとするのではなく、自分がなぜそれを引き受けたのかを思い出すことで、重さの感じ方が変わることがある。相談に来る人たちの中にも、同じような表情を見ることがある。義務感だけで背負っているように見えて、話を聞いていくと、その奥に自分で選んだという確かな手応えが残っている人が多い。実家を離れて別の街で暮らしながらも、定期的に戻ってきて親の様子を見ている人。都会での仕事を辞めて地元に戻り、家業や土地を継ぐことを選んだ人。それぞれの選択の背景には、周囲からは見えにくい葛藤があったはずだが、話を聞いていくと、最終的にはその不自由さを自分の意志で引き受けたという確かな手触りが残っている。土地というものは、一度縁を持つと簡単には手放せないものだと感じることが多い。相続した実家を空き家のまま維持することも、思い出のある庭木を切らずに残しておくことも、合理的な判断だけを追えば手間や費用のかかる選択かもしれない。それでも、そこに理屈を超えた愛着があるからこそ、人はその不自由を引き受け続けるのだろうと思う。
「Handcuffed」という曲は、不自由さそのものを否定するのではなく、その中にある自分の選択を見つめ直すきっかけをくれる。完全な自由を求めるのではなく、繋がれていることの中にある意味を探すこと。バンドが初めてトップ10入りを果たしたアルバムの中に、あえてこうした静かな曲を置いたことにも、通じるものがあるように思う。前へ進む勢いだけでは支えきれない足元の実感を、このグルーヴが引き受けている。土地や家族に縛られながら日々を送る中で、この曲に身を委ねる時間だけは、自分にとって数少ない、静かな受容の練習になっている。磐田という土地に根を張り、東京で過ごした日々とは違う速度で暮らす今、完全な自由を求める気持ちはずいぶん薄れてきた。その代わりに、自分がなぜこの土地を、この仕事を、この家族を選んだのかを、時折立ち止まって思い出すようになった。「Handcuffed」という曲のグルーヴに身を委ねる数分間は、自分にとってその作業を静かに繰り返すための、ささやかな時間になっている。不自由を嘆く言葉を口にする人と向き合うとき、その不自由を無理に取り払おうとするのではなく、そこに至るまでの選択を一緒に振り返ることの方が、結局は相手の気持ちを軽くすることが多いと感じている。手錠を外す方法を探すのではなく、その手錠をなぜ自分の意志ではめたのかを思い出す。この曲が静かに教えてくれるのは、そうした遠回りのようで実は近道な、受け止め方の作法なのかもしれない。
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