言葉を交わさずに、何かを受け渡すことができるのか。この曲を聴くたびに、そんな問いを思い出す。Nulbarich「ASH feat. Vaundy」は、2020年10月28日にデジタル配信限定でリリースされた楽曲である。NulbarichのフロントマンJQがロサンゼルスに活動拠点を移し、バンドを次の段階に進めようとしていた時期に、日本で活動するVaundyへ声をかけて実現したコラボレーションだったと、音楽ナタリーが企画した鼎談企画で明かされている[1]。JQは「気になる人の脳みそを探りにいきたい」という動機からVaundyを選んだと語っており、音楽家同士が一緒に曲を作ることで相手の内側が見えると考えていたようだ[1]。制作はメロディーガイドすらない大まかなループのインストをJQが送るところから始まり、Vaundyがそれを大胆に組み替えてメロディーとサビを加えて返す、という往復が3回ほど行われただけだったという[1]。
3往復のデータが生んだ化学反応
この曲の成り立ちで最も印象的なのは、対話の少なさである。ふつう共作といえば、意図をすり合わせ、方向性を確認し合いながら形にしていくものだと思われがちだが、この曲はその逆をいく。JQが送った「メロディーガイドもない、大まかなループのインストだけ」というトラックに対して、Vaundyはそのミニマルな素材を大胆に作り直し、コード進行を変え、サビを加えて送り返した[1]。JQは当初、Vaundyが書いたヴァース部分が物足りないと感じたというが、Vaundyが加えた「灰にして」という一節の強度に気づき、そのフレーズをサビとして残しながら曲を再構築したと鼎談で語っている[1]。JQ自身の言葉を借りれば、「ざるにかけたときに、角があって荒いものが、ざるから零れずに残っていく」ようなフレーズだったという[1]。会話をほとんど挟まずに素材だけを投げ合ったからこそ、互いの手の内を探り合うような緊張感がそのままトラックに刻まれているように聴こえる。冒頭から続くビートは、80年代のブギーやディスコを思わせる弾力のあるリズムを土台にしていて、そこに現在のミックスならではの解像度の高さが重なっている。過去の音の記憶を下敷きにしながら、その上で交わされる声だけは驚くほど今の距離感で鳴っている。懐かしさと新しさが同じ拍の中で同居しているのは、二人が互いの手の内を知らないまま音を重ねたからこそ生まれた摩擦のようにも思える。
もう一つ興味深いのは、二人の音楽との向き合い方の違いが、そのまま曲の奥行きになっている点だ。Vaundyは自らを「ミーハー」と称し、流行しているヒット曲を研究・分析しながら曲を作る方法論を採ってきたとインタビューで述べている[3]。音楽家を「学者」に例え、いずれ名曲と呼ばれるものを作るための準備段階として、今のヒット曲を学んでいるのだという[3]。一方のJQは、感覚的に「いいじゃん、これ」という直感の判断を積み重ねて曲を作ってきたタイプだと語っており、Vaundyの理詰めのアプローチに対して「ここまでちゃんと物事を捉えながら曲を作ったことがない」と応じている[3]。直感型のJQと分析型のVaundy、この対照的な二人が同じサビの旋律を挟んで向き合ったことで、単独では生まれ得なかった張りつめた質感が曲に宿ったのではないか。Vaundyはさらに、音を足す作業は誰にでもできるが、「引き算はひとりじゃないと難しい」とも語っている[3]。今回の共作では、二人が互いの要素を引き合うようにして、結果的にシンプルで洗練された形に着地したのだという[3]。饒舌に説明し合わなかったからこそ、無駄なものが自然と削ぎ落とされていったのかもしれない。
ビートの隙間に置かれたシンセの音色にも、古い時代の機材を思わせる丸みがあり、それが現在のクリアなミックスの輪郭とせめぎ合っているように聴こえる。過去の質感と現在の解像度が同居することで、曲全体がどこか時間を行き来しているような浮遊感をまとっている。JQの声は伸びやかで抜けがよく、フレーズの終わりを空間に溶かすように歌う一方、Vaundyの声は輪郭がはっきりしていて、言葉の粒立ちを際立たせるように歌う。異なる発声の持ち主が同じサビの旋律をなぞることで、同じメロディーでも違う手触りが生まれている。共作というと声を溶け合わせる方向に向かいがちだが、この曲はむしろ二つの声の違いをそのまま残すことで、一人では出せない厚みを獲得しているように感じられる。
「灰にして」という一語が担ったもの
この曲の歌詞に丸ごと触れることはしないが、その成り立ちについては触れておきたい。歌詞全体は、Vaundyが提示した「灰にして」という一節を共通の手がかりとしながら、JQとVaundyがそれぞれ独立して書いたものだという[1]。特に相談することなく個別に書かれた結果、両者のヴァースには微妙な二面性が生まれ、JQ自身も鼎談の中で「つじつまは合っていないかもしれないけど」と振り返っている[1]。統一された物語を説明するためではなく、それぞれが自分の言葉で膨らませるための余白として、灰というモチーフが機能しているように聴こえる。Aメロとサビでヴァースの温度が微妙にずれて聴こえるのは、二人が同じ主題を別々の場所で咀嚼した痕跡なのだろう。噛み合わせようとして噛み合ったのではなく、それぞれが自分のやり方を貫いた結果として噛み合ってしまった。そのずれの少なさが、逆に不思議な説得力を生んでいるように感じる。灰という言葉は、何かが燃え尽きたあとに残るものであると同時に、次の何かの土壌にもなり得る。それまでの拠点や関係性を一度手放し、新しい場所で活動を始めようとしていたJQの状況と、この言葉が静かに重なって聴こえるのは、決して偶然ではないように思う。説明しすぎない余白を残した歌詞だからこそ、聴くたびに解釈の輪郭が少しずつ変わって見えるのだろう。
山田健人監督、本番一発撮りのワンカットMV
この曲には公式ミュージックビデオが存在する。監督を務めたのは映像作家の山田健人(dutch_tokyo)で、Nulbarichの映像作品としては初めての起用だったという[2][4]。監督自身のコメントによれば、「久々のちょっと不思議なワンカット、本番一発撮りで終わりました」とのことで、編集でつなぐのではなく、一度きりの撮影で完成させる手法が採られている[4]。映像は、刻一刻と変化するカオスな空間の中に、JQとVaundyをはじめ、様々な似通ったキャストが入り乱れて登場する、つかみどころのない仕上がりになっていると伝えられている[2][4]。監督自身も「得体の知れない2人組による、得体の知れない2人組たちのワンカットビデオ」と評しており、あえて明快な物語を提示しない構成になっているようだ[4]。ワンカットで押し切るという撮影手法は、ほぼ無言でデータを往復させただけで曲を完成させたという制作プロセスと、どこか響き合っているように思える。編集でつなぎ直す余地を残さず、その場で成立させてしまう潔さは、音の制作と映像の制作、両方に共通する姿勢なのかもしれない。ヨルシカのn-bunaが手がけたリミックスバージョンも同時にリリースされており、オリジナルの世界観を軸にしながらn-buna独自のアレンジが加えられた仕上がりになっているという[3][5]。
数字より先に確かめられること
この曲がリリース当時どれほどの反響を呼んだのか、具体的なチャート順位や再生回数について、確度の高い数値をここで確認することはできなかった。ただ、Vaundyにとって初期の客演仕事の一つとして音楽メディアで繰り返し取り上げられ、n-bunaによるリミックスも同時収録されたことは、複数の記事で確認できる[3][5]。数字の派手さよりも、この曲が異なる背景を持つ作り手たちの間で語り継がれてきたという事実の方が興味深く映る。売上や再生回数は後から積み上がっていくものだが、誰と誰がどんな条件で一緒に音を鳴らしたかという経緯は、時間が経っても書き換わらない。曲の値打ちを測る物差しは、一つではないのだと思わされる。
言葉を尽くさなくても、渡すべきものが渡ってしまう瞬間が音楽にはあります。家や土地にも、誰かが積み重ねてきた記憶が、多くを語らないまま残っていることがあります。
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