ページ作成日: 2026年7月5日
元にしたYouTubeリンク: https://www.youtube.com/watch?v=3mEXnLyp6Vo
確認した動画: Nulbarich – VOICE (Official Music Video)(Nulbarich本人公式チャンネル)

「VOICE」は、時計のCMソングとして生まれた曲だと知ってから、聴こえ方が変わった一曲です。腕時計は、時間を計る道具である以前に、身につける者の生活のリズムそのものを映す小さな装置です。その広告のために書き下ろされた曲に「声」という名前がついている。時間を売る商品のCMに、声というテーマの曲が選ばれたことに、最初は小さな違和感を覚えました。けれど何度か聴くうちに、時間と声は、実はどちらも人の生活の中で静かに積み重なっていくものだと気づかされます。もうひとつ、この曲を知ってから驚いたのは、公式ミュージックビデオの存在感です。山田智和という、Sakanactionや米津玄師の映像も手がけてきた監督が、ダンサーのアオイヤマダを起用し、遠く離れたイスタンブールで撮影したという事実を知ると、CMソングという出自だけでは語りきれない、もう一段深い映像作品としての厚みがこの曲に与えられていたことがわかります[4][7]

大石セレクション:MVがいい ★★★★★

  • 曲がいい:★★★★☆
  • 歌詞がいい:★★★☆☆
  • MVがいい:★★★★★

選定理由:この曲は、ソウルやファンクを土台にした軽やかなグルーヴだけでも十分に心地よいが、それ以上に強く語れるのは公式MVの完成度である。山田智和という映像作家が、CMソングという商業的な依頼の枠を超えて、ダンサーのアオイヤマダを主役に据え、日本から遠く離れたイスタンブールの新市街と旧市街を歩かせるという、独立した映像作品を作り上げている[4][7]。曲を聴くだけでは見えてこなかった「声」というテーマが、言葉を発さないダンサーの身体の動きと、東西文化が交差する街の空気を通じて、むしろ雄弁に伝わってくる。歌詞は英語詞を中心に必要最小限の言葉で構成されており、丁寧だが主視点として選ぶほどの物語的な強度までは感じにくい。曲としての完成度も高いが、CMソングとして削ぎ落とされた尺の中にまとまっている分、MVほどの独立した世界の広がりは持っていない。以上の理由から、大石セレクションはMVがいいに置いた。

腕時計のCMソングとして書かれた曲

「VOICE」は2018年11月21日に配信限定でリリースされた楽曲で、シチズンの腕時計ブランド「クロスシー」のテレビCMソングとして起用されました。CMは女優の北川景子が出演したもので、放送は同年10月4日から始まっていたとタワーレコードやSkreamなどの音楽メディアが報じています。CMソング先行という形で世に出たあと、この曲は2019年2月6日にリリースされたアルバム『Blank Envelope』に収録され、アルバムの先行配信シングルという位置づけになりました。10月28日にはJ-WAVEの番組にNulbarichがゲスト出演し、この曲がラジオで初めてフルオンエアされたとも伝えられています。CMのために依頼されて書かれた曲が、単発で終わらずアルバムを導く一曲として選ばれたことは、バンド自身がこの曲に、その場限りではない手応えを感じていたことの表れではないかと思います。腕時計のブランドがNulbarichを起用した背景には、彼らの音楽が持つ都会的でありながら気負いのない雰囲気が、日常に寄り添う道具としての腕時計のイメージと重なると判断されたのではないか。CMの現場を直接見たわけではありませんが、曲を聴くたびに、そうした選定の意図を想像してしまいます。北川景子が出演したCM映像自体は、いつもとは違う柔らかな表情を見せるものだったと伝えられており、その落ち着いた雰囲気にも、この曲の穏やかなグルーヴが自然に寄り添っていたのではないかと感じます。

アルバム『Blank Envelope』は、オリコン週間7位を記録した前作『H.O.T』からおよそ1年を経てのリリースだったとされ、Nulbarichにとって重要な節目の作品だったようです。「VOICE」だけを取り出した単独のセールス記録は追いにくいのですが、CMという商業的な枠組みから生まれた曲が、アルバムの顔として機能したという事実そのものが、この曲の完成度を物語っているように感じます。依頼されて書いた曲と、自分たちが本当に鳴らしたい音楽との間には、本来なら距離があってもおかしくありません。それでもこの曲がアルバムを導く一曲として選ばれたということは、その距離をバンド自身が意識的に埋めていった結果なのではないかと思わせます。仕事として引き受けた依頼の中に、自分たちの表現を確かに織り込んでいく。そのバランス感覚こそが、この曲を単なるCMソングで終わらせなかった理由のように感じられます。『Blank Envelope』というアルバムタイトルには「空白の封筒」という意味があり、そこに何を書き込むかは受け取った側に委ねられているようなニュアンスを感じます。CMという外側から与えられた枠組みの中に、バンド自身の言葉を静かに書き込んでいった過程が、この曲には残っているように思えます。

山田智和が撮った、イスタンブールを歩く「声」

「VOICE」の公式ミュージックビデオを手がけたのは、山田智和という映像作家である。Sakanactionや米津玄師のミュージックビデオを数多く手がけてきた人物で、CMソングという商業的な依頼から生まれた曲に、ここまで作家性の強い映像を与えた事実は、あらためて驚きに値する[4][7]。映像の主役は、ダンサーのアオイヤマダである。彼女は言葉を発することなく、ただイスタンブールの新市街と旧市街を歩き、時に踊る。ヨーロッパとアジアの境界に位置し、東西の文化が交錯する街を舞台に選んだこと自体が、この曲のテーマと静かに響き合っているように感じられる[4]。「声」という曲名でありながら、映像の中で言葉は語られない。かわりに、ダンサーの身体の動き、視線、歩く速さの緩急が、言葉にならない感情の輪郭を伝えてくる。石畳の古い街並みと、行き交う人々の気配が交差する場所を、一人のダンサーが自分のリズムで進んでいく様子は、CMというごく短い尺のために書かれた曲を、まったく別の時間の流れの中に置き直しているように見える。

この映像を見て感じるのは、「声」というものが必ずしも言葉である必要はない、ということだ。ダンサーの身体そのものが、彼女なりの声を発しているように映る。異国の街を一人で歩く心細さと、それでも前に進んでいく静かな強さ。その両方が画面の中に同居していて、レポートによれば「悲しさとポジティブさの繊細なバランス」が表現されているという評もうなずける[4]。CMソングとして流れていた十数秒の断片を知っている人が、あらためてフルサイズのミュージックビデオを見ると、腕時計の広告という枠組みの中では見えていなかった曲の奥行きに気づかされるはずだ。曲が先にあり、CMのための短い映像がつき、そのあとに独立した作品としての公式ミュージックビデオが公開される。この順序を知ると、「VOICE」という曲が、依頼された仕事の枠を越えて、少しずつ自分自身の物語を獲得していった過程が見えてくる。

時間を刻む音、声を刻む記憶

音楽的には、ソウルやファンクを基調にした軽やかなグルーヴと、都会的でありながらどこか懐かしさも滲む響きが同居しているように聴こえます。ジェイキューの透明感のある高い声域のボーカルは、英語詞を中心にしながらも、言葉の意味を追わせるというより、声そのものの手触りをまず届けてくるタイプの歌い方だと感じます。リズム隊が刻む一定のテンポは、時計の針の動きにどこか通じるものがあり、その上に乗る歌声は、規則正しく進む時間の中で、ふと差し込む感情の揺れのように響きます。時計のCMという、正確さや機能性が前面に出やすい題材でありながら、この曲が選ばれた理由は、むしろその規則性の中にある人間的な温度にあったのではないか。曲を聴くたびに、そんな想像をしています。ビートが淡々と刻まれる背後で、コーラスワークやシンセの音色がわずかに揺らぎながら重なっていく構成は、機械的な正確さと、人の呼吸に近い揺らぎとが同居しているようにも聴こえ、その対比こそがこの曲の推進力になっているのではないかと感じます。サビに向かって音数が増えていく展開も、時間の経過とともに感情が積み上がっていく様子を描いているように感じられ、CMという短い枠の中でも、聴く者の中に小さな高まりを残す構成になっているのではないかと思います。

東京で働いていた頃、毎朝同じ時刻の電車に乗り、同じ時刻に会議が始まり、同じ時刻に一日が終わっていくという生活を送っていました。時計は正確に時間を刻んでくれますが、その中身、つまりその日その日に何を感じ、誰と何を話したかということは、時計自身は何も教えてくれません。刻まれる時間の器と、そこに満たされていく声や記憶は、まったく別のものです。「VOICE」という曲が、時計のCMのために書かれながら、時間そのものではなく声について歌っているらしいことは、当時の自分にとって示唆的でした。同じ時間を過ごしても、そこに何の声が響いていたかによって、記憶に残る一日はまったく違うものになる。そのことに、当時はまだうまく言葉を与えられずにいました。忙しさに追われていた頃は、一日の終わりに何も思い出せないことがよくありました。何時に何をしたかという事実だけが記録として残り、そこにどんな声が響いていたかは、いつの間にか記憶から抜け落ちていたのです。手帳には予定がびっしり書き込まれているのに、そこに書かれた誰かの名前を見ても、実際にどんな声で何を話したかを思い出せない。そういう空白の時間が、当時は積み重なっていたのだと、今になって振り返ります。

磐田に戻り、時間の質が変わった

磐田に戻ってからの時間の刻まれ方は、東京にいた頃とは明らかに違います。分刻みで動いていた頃と比べると、季節の移ろいや、朝晩の光の変化といった、もっと大きな単位で時間を感じるようになりました。家の仕事は、こちらの都合だけでは進まないことが多く、相手の家族の事情や、土地に染みついた事情のペースに合わせて動く必要があります。急いても仕方のない時間の中に身を置くようになって、初めて、東京にいた頃にどれだけ時計に急かされていたかに気づきました。腕にはめる時計を気にする回数も、以前とは比べものにならないほど減りました。それでも一日の輪郭は、以前よりもむしろはっきりと感じられるようになった気がします。時計を頼りにしなくなった分だけ、誰と何を話したかという記憶の方が、一日の実質的な単位になっていったのかもしれません。田畑の様子や、近所の方との立ち話、家族との食卓での会話。そうした声のやり取りの積み重ねが、今の自分にとっての時間の単位そのものになっています。

相談に来られる方の話を聞いていると、家や土地の問題は、たいてい一朝一夕には片づかないことがわかります。何年もかけて積み重なってきた事情が、ようやく声になって言葉として出てくるまでには、それなりの時間が必要です。急かさずに、その方のペースで語ってもらうことでしか、本当に必要なことは見えてきません。時計のCMソングとして生まれた曲が、実際には時間そのものではなく声について歌っていたように、こちらの仕事もまた、時間を管理することよりも、相手の声にじっくり耳を傾けることのほうが、はるかに大きな意味を持っています。空き家になった実家の片づけ一つをとっても、書類上の手続きよりも先に、家族それぞれの中にある踏ん切りのつかなさに、時間をかけて向き合わなければならない場面が何度もありました。相談の初回は事務的な確認だけで終わることも多いのですが、二度目、三度目と時間を重ねるうちに、初めは出てこなかった本音がぽつりぽつりと言葉になっていく。その瞬間に立ち会うたびに、声は急かして引き出せるものではなく、時間をかけて待つことでしか受け取れないものなのだと実感します。

「VOICE」を聴くと、時計の針のように規則正しく流れていく日々の中で、それでも一人ひとりの声だけは、その規則性からこぼれ落ちるようにして残っていくのだと感じます。CMという限られた尺のために書かれた曲が、尺を超えて記憶に残るように、日々の暮らしの中で交わされる声もまた、時間の長さとは関係なく、心に残るものは残る。腕時計の広告から生まれた一曲が、皮肉にも、時計では測れないものについて静かに語りかけてくるようです。仕事の合間にふとこの曲が流れると、目の前の予定表から一瞬だけ意識が外れて、これまで交わしてきたいくつもの声が、順不同のまま浮かび上がってくることがあります。

家族の声が積み重なる場所で

家業を継いで、家族の一員として、また相談を受ける立場として、日々いろいろな声に接しています。父の声、母の声、妻や子どもの声、そして相談に来られる方々の声。それぞれの声には、時計では計れない固有の速度とリズムがあります。急かせば早く話が進むわけではなく、むしろ黙って待つ時間の方が、本音を引き出すことにつながる場面を、これまで何度も経験してきました。「VOICE」という曲が、CMという商業的な依頼から生まれながらも、結果的に声そのものの豊かさを表現する曲になったように、この土地での仕事もまた、効率や速さだけでは測れない価値を持っているのだと、日々教えられています。時計の針は誰にとっても同じ速さで進みますが、そこに刻まれる声の重みは、一人ひとりまったく違う。腕時計のCMソングとして生まれたこの曲を聴くたびに、その当たり前のことを、あらためて思い出させられます。子どもの声が家の中で響く時間、両親の声が電話越しに聞こえる時間、そのどちらも、決して同じ速さでは流れていきません。時計が刻む時間の外側で、それぞれの声が積み重なっていく場所に、今は自分の生活があるのだと感じます。

参考リンク

誰かの声も、家や土地に残る記憶も、急かして引き出せるものではなく、時間をかけて向き合うことでしか見えてきません。

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書いた人

大石浩之。静岡県磐田市で、介護と不動産の仕事をしています。 若い頃に東京で過ごした時間、仕事の中で見てきた家族や街の記憶、 そして今暮らす磐田で感じることを、音楽をきっかけに書いています。

音楽は、過去の自分に会いに行くための入口です。 家や土地もまた、誰かの記憶が残る場所だと思っています。