2019年1月9日にリリースされた「からだ」は、作詞・作曲・編曲のすべてを岡崎体育自身が手がけた一曲だ[1]。「MUSIC VIDEO」で見せたコンセプチュアルな仕掛けとは一転して、この曲が扱っているのは、もっと本能的でシンプルなテーマ、すなわち「踊ること」そのものだ。歌詞には「盆地ダンス」という言葉が繰り返し登場し[1]、頭で考えるよりも先に体が動いてしまう、そんな高揚感を軸に組み立てられている。
「盆地テクノ」という故郷への眼差し
岡崎体育は、自身の音楽性を「盆地テクノ」と称することがある。京都府宇治市という、盆地特有の内にこもった空気感を持つ土地で育った経験が、彼の音楽性の根底に流れているのだろう[2]。この曲に登場する「盆地ダンス」という言葉も、単なる語呂合わせではなく、彼が自身のルーツである土地の空気を、あえてダンスミュージックという開放的なジャンルの中に持ち込もうとする試みなのではないかと感じる。閉じた盆地の中で育まれた感性が、外へ外へと踊り出していく。この曲が持つ高揚感には、そうした故郷とのねじれた関係性が、無意識のうちに滲み出ているように思える。加えて、岡崎体育の母親はイギリス出身のロックバンドQueenの追っかけをしていたと伝えられており[3]、幼少期からそうした海外のロックに親しんできた環境も、彼の音楽的なルーツに大きく影響しているはずだ。Queenのライブといえば、フレディ・マーキュリーが会場全体を巨大なダンスフロアに変えてしまうような、身体感覚に訴えかける力強さで知られる。頭で考えるより先に体が動いてしまうというこの曲の感覚は、幼少期に浴びるように聴いてきたロックの身体性が、形を変えて受け継がれたものなのかもしれない。京都の盆地という閉じた土地で育ちながら、海外のロックという開かれた音楽に親しんできた——この一見矛盾する組み合わせこそが、彼の音楽の独自性を支えている。
頭ではなく、からだで納得する
歌詞に丸ごと触れることは控えるが、この曲が繰り返し歌っているのは、理屈よりも先に体が反応してしまう瞬間の心地よさだ[1]。私たちは日常生活の中で、常に頭で物事を考え、判断し、行動している。しかし音楽やダンスの現場では、その順序が逆転する瞬間がある。理由を説明できないまま、ただリズムに乗って体が動いてしまう。この曲はその瞬間の解放感を、シンプルな言葉の反復によって表現している。難解な比喩や複雑な物語を持ち込まず、あくまで「からだ」という直接的な言葉を軸に据えたことが、逆にこの曲の説得力を高めている。考えることに疲れた日、この曲を聴くと、頭より先に足でリズムを取り始めている自分に気づかされる。難しい理屈で武装するのではなく、身体感覚に直接訴えるという選択が、この曲を長く聴かせるものにしている。
ヒップホップとダンスポップを掛け合わせたトラックは、四つ打ちに近い規則的なビートを土台にしながら、そこに跳ねるようなリズムの装飾を重ねていく作りになっている。作詞・作曲・編曲のすべてを岡崎体育自身が手がけているぶん[1]、歌のメロディとトラックの隙間がぴたりと噛み合い、余計な音がひとつも遊んでいない。歌い手が「どう聴かせたいか」を隅々まで把握したうえで音を配置しているからこそ、聴く側は理屈抜きに体を委ねられる。ダンスミュージックというと、ともすれば派手な音圧で押し切る印象を持たれがちだが、この曲の推進力はむしろ、無駄をそぎ落とした構造の潔さから来ているように思う。同じフレーズを繰り返しながらも、少しずつ音の重なりを変えていくことで飽きさせない設計は、緻密な計算と、それを感じさせない軽やかさの両方を備えている。頭で作り込まれた曲であることと、頭を空っぽにして踊れる曲であること。その両立こそが、「からだ」という一曲の面白さの核にある。
テキスト演出が語る、遊び心のある映像美学
MVの冒頭では、譜面台に囲まれた空間の中に「岡崎体育」という文字がタイポグラフィとして映し出される演出が印象的だ。派手なダンスシーンをいきなり見せるのではなく、まずグラフィカルな文字遊びから入るという構成には、「MVあるある」を歌にしてしまった彼らしい、映像そのものへの強いこだわりが感じられる。曲のジャンルとしてはダンスミュージックでありながら、映像の入り口では静的なデザイン性を見せるというギャップが、この曲全体の緩急を作り出している。「MUSIC VIDEO」で見せた、映像文法そのものを解体するような知的な仕掛けと、この「からだ」で見せる本能的なダンスの高揚感。この二つを並べて聴くと、岡崎体育というアーティストが、頭脳的な企画力と、体を突き動かす純粋な音楽的推進力の両方を兼ね備えていることがよく分かる。どちらか一方だけでは、長く音楽シーンで活動を続けることは難しい。知性と本能、その両方を自在に行き来できる懐の深さこそが、彼を単なる「バズった一発屋」で終わらせなかった理由なのだと思う。
大学卒業後の遠回りが与えたもの
同志社大学を卒業後、一度は一般企業に就職しながらも音楽の夢を諦めきれず、わずか半年で退職したという経歴は[3]、この曲が持つ「頭で考えるより先に体が動く」というテーマと、奇妙に重なって見える。安定した会社員としての道を選ぶという、頭で考えれば合理的な選択を一度はしたにもかかわらず、結局は体が、あるいは心が求める方向へと動いてしまった。そうした自分自身の経験があったからこそ、理屈を超えて体が動く瞬間の心地よさを、これほど説得力を持って歌にできたのではないだろうか。回り道をしたからこそ書ける歌がある。この曲を聴くたびに、そのことを思い出させられる。安定を捨てて選んだ道の先に、こうして多くの人を踊らせる曲が生まれた。その事実そのものが、頭で計算しきれない人生の面白さを物語っている。会社員としての人生を選んでいたら、この曲もこの高揚感も、決して生まれなかったのだと思うと、あらためて感慨深いものがある。誰もが一度は経験する「安定か、情熱か」という選択の岐路で、彼が選んだ道の先に、この一曲が確かに立っている。頭で計算していたら選べなかった道の先に、こんなにも軽やかな音楽が待っていた。からだが選んだ道は、案外いつも正しいのかもしれない。
参考リンク
頭より先にからだが動いてしまう瞬間があるように、住まいの決断にも、心が先に答えを出していることがあります。
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