「ありあまる富」は、2009年5月27日に発表された椎名林檎のシングルである[1]。TBS系金曜ドラマ『スマイル』の制作スタッフからの要望を受けて書き下ろされた楽曲で、椎名林檎にとってはソロ名義でのテレビドラマタイアップとして初めての一曲になったという[1][2]。ソロとしては2003年の「りんごのうた」以来、約5年半ぶりのシングルでもあった[2]。大石浩之がこの曲を最初に聴いたのは、まさにその放送当時、東京で働いていた頃のことだ。当時は主題歌としての力強さ、テレビの向こうから鳴り響く迫力の方が強く耳に残っていた。ドラマの記憶と曲の記憶が分かちがたく結びついていた時期があった。
編曲と補作曲、ギターにはいまみちともたかが参加している[1]。椎名林檎の楽曲に他者が補作として関わるのはこのときが初めてだったとされ、楽曲後半の大サビ部分はいまみちの補作によるものだという[1]。アコースティックギターを軸にした骨格の上に、ロック・バラードとしての熱量が重ねられていく構成は、聴くたびに「ギミックのないストレートな壮大さ」という言葉がふさわしいと感じさせる。年月が経ち、東京を離れて磐田で家や土地の相談を受ける日々を送るようになった今、この曲を聴き直すと、当時気づかなかった落ち着きが耳に入ってくる。派手さの奥に、ずいぶん静かな骨格があったのだと分かる。
単独名義の作品に他者の補作を招き入れるというのは、それまでの椎名林檎の作品づくりからすると一つの転換点だったのではないかと想像する。自分の内側だけで完結させるのではなく、いまみちの持つギタリストとしての手つきを、あえて曲の中に招き入れる。その判断は、ドラマという他者の依頼に応えるという成り立ちと、どこかで響き合っているように思える。誰かのために書き、誰かの手を借りて仕上げる。この曲はいくつもの意味で、一人だけでは完結していない曲だったのかもしれない。
タイアップという場所で生まれた曲
この曲がドラマの依頼を受けて作られたという経緯は、椎名林檎という書き手にとって珍しい成り立ちだったのではないかと思う。彼女の作品の多くは、まず自分の内側から出発しているという印象が強い。けれど「ありあまる富」は、まず外側から「主題歌を」という依頼があり、そこに応える形で曲が立ち上がっている。1か月ほど後に発表されたオリジナルアルバム『三文ゴシップ』にこの曲が収録されなかったのも、アルバムの構成がすでに固まったあとに書き下ろされたためだとされる。つまりこの曲は、アルバムという自分の物語の外側で、単独で生まれ、単独で鳴り続けてきた曲だということになる。
依頼から生まれた曲だからといって、内容が借り物めいて聴こえるわけではない。むしろ「真の豊かさとは何か」を問いかけるという骨太なテーマは、ドラマの主題歌という枠を超えて、独立した強度を持っている。大石が東京で会社勤めをしていた頃、この曲がテレビから流れるたびに、自分の仕事や生活の「豊かさ」とは何なのかを考えさせられた記憶がある。忙しさに追われていた時期には、その問いをじっくり受け止める余裕はなかった。むしろ聞き流していた時間の方が長かったように思う。曲は誰かの依頼から生まれても、聴く側の事情とは関係なく、ただそこに置かれ続ける。年月を経てから不意に効いてくることがある。
この曲を書いた時期、椎名林檎はソロとして5年半のブランクを経ていたとされる。その空白のあとに、自分発ではなくドラマ側からの依頼に応える形で歌が動き出したというのは、興味深い巡り合わせに思える。長く沈黙していた書き手が、外からの呼びかけによって再び声を出す。大石自身、東京での仕事に一区切りをつけ、磐田へ戻って新しい形で働き始めた時期があった。あのときも、自分から望んで踏み出したというより、家族の事情や地域の求めに応える中で、少しずつ今の仕事の形が定まっていった。空白のあとに動き出すきっかけは、必ずしも自分の内側だけにあるわけではないのかもしれない。
数字に残った手応えと、そこに映らないもの
「ありあまる富」はオリコン週間シングルランキングで3位、月間では8位、年間では79位というチャート成績を記録したとされる[1]。Billboard Japan Hot 100の週間チャートでも5位につけたという[1]。5年半のブランクを経てのソロシングルとして、これは決して小さな数字ではない。だが、この曲を今聴くときに大石の中で残っているのは、そうした順位や数字そのものではなく、当時その曲がどんな場面で流れていたか、という記憶の方だ。チャートの数字は、その年、その季節に多くの人がこの曲を求めていたという事実を静かに裏づけているにすぎない。曲そのものの価値は、そこから少し離れたところにある。
磐田で家や土地、相続の相談を受けていると、「数字に残るもの」と「数字に残らないもの」の距離をよく考える。査定額、面積、築年数、成約価格。どれも大切な指標だが、それだけでは家族がその家で過ごした時間や、そこに残った空気までは説明できない。この曲のオリコン順位も、それに近いところがあるのではないか。数字は曲がどれだけ多くの人に届いたかを示す。しかし、なぜその人がその曲を必要としたのか、何を確かめるために聴いていたのかまでは、数字は語ってくれない。売れた曲であることと、意味のある曲であることは、重なりながらも別の話なのだと思う。
それでも、数字には数字なりの正直さがある。週間3位という順位は、発売直後にどれだけの人がこの曲を求めて動いたかを示している。月間8位、年間79位という並びを見ると、発売時の勢いがそのまま一年を通して続いたわけではなく、季節が進むにつれて落ち着いていったこともうかがえる。曲の熱は、いつも一定の温度で残り続けるわけではない。家や土地の相談でも同じことを感じる。相談が動き出す瞬間には強い勢いがあっても、そこから先の手続きや整理は、時間をかけて少しずつ静まりながら進んでいく。数字の推移は、その温度の変化を思い出させてくれる資料でもある。
Billboard Japan Hot 100での週間5位という成績も、単純な販売枚数だけでなく、放送やダウンロードなど複数の指標を合わせた総合的な数字だとされる。一つの物差しだけでは測れないという点は、家や土地の価値ともよく似ている。査定額という一つの数字の裏には、立地、築年数、周辺の需要、家族の思い入れといった、いくつもの軸が重なっている。この曲のチャート成績を眺めるとき、大石はいつも、数字の背後にある複数の軸のことを思い出す。
アコギの骨格とギターソロの熱
音楽的な特徴として語られることが多いのは、アコースティックギターを中心に置いたアレンジと、いまみちともたかによる終盤のギターソロだ。曲の前半は比較的抑えた歩みで進み、伸びやかな歌声がそのまま届くような、飾りの少ない編成に聴こえる。それが後半に向かうにつれて音の密度が増し、大サビの手前でギターが前に出てくる展開になっている。この構成は、静かな信頼を積み上げてから一気に感情を解き放つ、という順序を意識してつくられているのではないかと感じさせる。タイトルの「ありあまる富」という言葉の飛び道具的な響きと、曲の中身がむしろ簡素さを称える逆説的なメッセージであること、その二つのねじれが、終盤のギターの攻撃性によって一つにまとまっていくように聴こえる。
大石が磐田で家の解体や整理の現場に立ち会うとき、静かだった空間が最後の作業でにわかに騒がしくなる瞬間がある。長く積もった沈黙が、最後にまとめて音を立てて崩れていくような時間だ。この曲の後半のギターソロを聴くと、その感覚をどこかで思い出す。抑制されていた時間が長ければ長いほど、最後の音の広がりは大きく響く。曲がドラマの主題歌として求められたのも、抑えた導入から一気に感情を開放するこの構成が、映像の物語の起伏と重ねやすかったからではないか、と想像したくなる。もっとも、それはあくまで聴き手としての想像であって、制作側がそこまで意図していたかどうかは分からない。
歌声そのものについても、この曲では力任せに張り上げるというより、伸びやかさを保ったまま前に出てくるように聴こえる。叫ぶことで説得しようとするのではなく、声の芯をまっすぐ届けることで曲の主張を支えている、という印象を受ける。飾りを削ぎ落としながらも空虚にならない歌い方は、家や土地の相談の場で交わされる、言葉少ないながらも芯のある会話を思わせるところがある。多くを語らなくても、伝わるべきものは伝わる。そういう手触りに近い。
「富」という言葉が問いかけるもの
歌詞の細部を丸ごと引用することはしないが、この曲が繰り返し向き合っているのは、「真の豊かさとは何か」という一貫したテーマである。日本の名曲を現代の感性で再構築する音楽プロジェクト「Newtro」の一環として、UNCHAINがこの曲をカバーした際、ボーカルの谷川正憲は「価値とは何かというテーマが、音楽が消費される速度の速い現代だからこそ、より一層深く響く」という趣旨のコメントを寄せている[4]。金銭や地位、目に見える形の豊かさを価値の中心に置く見方と、そうしたものに縛られない見方とが、歌詞の中で静かに向かい合わされている。どちらが正しいと断定するのではなく、価値というものが本来どこに宿っているのかを、聴き手自身に問い直させる書き方になっている。生きていること、そこにある感情や記憶そのものに価値が備わっているという視点は、ドラマの主題歌という依頼から生まれた曲でありながら、依頼の枠を超えて長く語り継がれる強度を持っている。大石が磐田で相続や空き家の相談を受けていると、「何を残すべきか」という問いに何度も向き合うことになる。査定額や面積といった数字だけでは測れない、家族の時間や記憶の重みを、この曲の歌詞はそっと言い当てているように聴こえる。声高に主張するのではなく、聴くたびに違う角度から刺さってくる。そうした余白の作り方こそが、この曲の歌詞の一番の強さだと思う。
映像に本人が映らないという選択
この曲には児玉裕一監督によるミュージックビデオが存在し、映像作品集『性的ヒーリング〜其ノ四〜』にも収録されている[3]。特徴的なのは、椎名林檎本人がその映像に出演していないという点だ[3]。ドラマの主題歌として大きく打ち出された曲でありながら、歌い手自身の顔や姿を前面に出さない構成になっている。多くのタイアップ曲のMVが、アーティスト本人の存在感を軸に作られることを考えると、これは一つの明確な選択だったのではないかと想像したくなる。目に見える豊かさよりも、生きていること自体に価値を置くという歌詞のテーマと、歌い手の顔を消すという映像上の判断は、どこかで響き合っているようにも聴こえる。ただし、映像そのものの具体的な演出やカット割りについて、大石が確認できた公式資料は少なく、踏み込んだ考察は難しい。歌詞の世界観を補強する強い体験というよりは、曲の背景を知るための一つの手がかりとして受け止めておきたい。
磐田で聴き直す、依頼から生まれた曲
この曲が自分の内側の衝動からではなく、ドラマという依頼から始まったという事実は、大石にとって今の仕事のあり方と重なって聴こえる部分がある。不動産や空き家、相続の相談は、自分から望んで始まる仕事ではない。多くの場合、依頼者の側に事情があり、そこに応える形で仕事が始まる。けれど、依頼から始まった仕事だからといって、そこに込める姿勢が浅くていいわけではない。むしろ、依頼された枠の中でどれだけ丁寧に応えられるかが、その仕事の質を決める。「ありあまる富」がドラマの主題歌という枠の中で、テーマ性の強い一曲として独立した強度を持ち得たことは、そのことを静かに教えてくれるように思う。
東京にいた頃はこの曲を、力強い主題歌として聴いていた。磐田に戻り、家や土地の相談を重ねる日々の中で聴き直すと、依頼に応えながらも自分の言葉を通した曲、という印象の方が強くなる。誰かの要望から始まった仕事の中に、それでも自分にしか出せない骨格を残すこと。オリコンの順位やギターソロの熱量、アコギの静けさ、それらすべてが、外から与えられた枠と、内側から生まれた表現との間で釣り合いを取ろうとした跡のように聴こえてくる。ありあまる富という言葉を、今の暮らしの中でもう一度考えるなら、それは与えられた条件の中でどれだけ自分の芯を保てるか、という問いに近いのかもしれない。
大石にとって、東京での仕事は与えられた役割をこなす時間が長かった。磐田に戻ってからの仕事は、依頼はあっても、その先の判断や言葉選びは自分に委ねられていることが多い。どちらが優れているという話ではない。ただ、この曲がドラマという枠の中で、それでも椎名林檎にしか書けない骨格を保ち続けたように、大石も日々の相談の中で、依頼された枠の外に自分の言葉を残せているだろうかと、ふと立ち止まることがある。「ありあまる富」というタイトルを、今の自分の生活のそばに置いてみると、そういう小さな確認の時間が、意外と大切な富の一つなのだと思えてくる。
参考リンク
- [1] ありあまる富 - Wikipedia
- [2] 椎名林檎、「ありあまる富」について語る - BARKS
- [3] ありあまる富 - Wikipedia(ミュージックビデオ・収録曲の節)
- [4] UNCHAINが椎名林檎「ありあまる富」を再構築、"価値とは何か"が今だからこそ深く響く - 音楽ナタリー
音楽には、人生の時間が残ります。家や土地にもまた、誰かの暮らしや記憶が残っています。
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