ページ作成日: 2026年7月3日
元にしたYouTubeリンク: https://www.youtube.com/watch?v=YB0eRwdZjMo
確認した動画: 椎名林檎 - 青春の瞬き(SheenaRingoVEVO公式)

せつなそうな歌い方がいい、という感想は、この曲を語るときにいちばんふさわしい言葉だと思います。「青春の瞬き」の椎名林檎の歌唱は、声を張り上げることも、感情を大きく揺らすこともなく、どこか一歩引いたところから、過ぎ去った青春をそっと見つめています。まるで、自分で書いた歌詞を、自分ではない誰かの物語として扱っているかのような距離感。その距離感が、かえって切なさを増幅させます。近すぎる感情は、時に生々しすぎて聴き手を突き放しますが、この曲のようにわずかな距離を保ったまま歌われる切なさは、聴く側の記憶にすっと入り込む余白を残してくれます。せつなそうに歌うということは、感情を薄めることではなく、感情を扱う技術の高さの表れなのだと、この曲を聴くたびに思います。

提供曲を、自分で歌い直すということ

この曲には、少し込み入った成り立ちがあります。「青春の瞬き」はもともと、椎名林檎が女優の栗山千明に提供した楽曲です。栗山千明のバージョンは2011年11月23日にシングルとしてリリースされ、演奏は東京事変が務めました。作詞作曲はすべて椎名林檎によるものです。そして2014年5月27日、椎名林檎自身がこの曲をセルフカバーし、自らのシングルとしてリリースします。編曲は冨田恵一が新たに手がけ、アルバム『逆輸入 ~港湾局~』に収録されました。

自分が書いた曲を、別の歌い手に届けたあとで、時間を置いて自分自身の声で歌い直す。この行為には特別な緊張感があるはずです。栗山千明というひとりの女性の物語として書いた歌詞を、今度は作者本人の声で歌うとき、そこには演じるでも告白するでもない、独特の距離が生まれます。まるで、自分が生んだ物語をもう一度読み返しているような感覚です。この曲の「せつなそうな」歌い方は、まさにその、作者でありながら一歩引いた語り手であるという、二重の立場から生まれているのだと思います。

青春という、瞬きほどの時間

「瞬き」という言葉の選び方に、この曲の本質が表れています。青春は、過ぎている最中には長く感じられるものですが、振り返ってみると、まばたきほどの一瞬だったと気づかされます。東京で働いていた20代の日々を思い出すと、確かにそうでした。忙しさに追われ、将来への不安を抱えながら過ごしていたあの数年間は、渦中にいるときは永遠のように長く感じていたのに、今振り返れば、あっという間の出来事として記憶の中に収まっています。青春の当事者だったときには気づけなかった、その儚さと尊さを、この曲は歌の外側から静かに教えてくれます。

栗山千明が歌った時、この曲はひとりの女性の等身大の物語でした。椎名林檎が歌い直すことで、この曲は、青春そのものを俯瞰する歌に生まれ変わりました。同じ歌詞、同じメロディーでありながら、歌う人が変わることで曲の立ち位置が変わる。これは音楽が持つ、とても豊かな性質だと思います。ひとつの曲が、当事者の歌にも、見届ける者の歌にもなれる。この曲を聴くたびに、私は自分の青春の当事者としての記憶と、それを今、大人になって見届けている自分の両方を、同時に感じます。

磐田で振り返る、瞬きの時間

50代になった今、磐田で家や土地の相談を仕事にしていると、人の人生の中の「瞬き」に何度も立ち会います。相談に来られる方が語る、若い頃の思い出。家族と過ごした時間。それらはみな、当時は長く感じられたはずなのに、語られる言葉の中では、驚くほど短くまとめられています。長い年月を経て振り返ると、人生の大事な時間は、いつも瞬きほどの分量に圧縮されてしまうのだと、この仕事を通じて実感します。

この曲の切なさは、失われた時間への未練ではなく、瞬きのように短くても確かに存在した時間そのものへの、静かな肯定なのだと思います。せつなそうに歌うということは、悲しみに沈むことではなく、過ぎ去った時間の重みを、そのまま丁寧に扱うことです。青春が瞬きほどの時間だったとしても、その瞬きは確かに私たちの中にあった。この曲を聴くたびに、そのことを静かに思い出させてもらっています。

ATAWI MUSICは、音楽を消費するサイトではありません。曲をきっかけに、瞬きのように過ぎた時間の重みを読み直す場所です。