ページ作成日: 2026年7月3日
元にしたYouTubeリンク: https://www.youtube.com/watch?v=RoPK4BrrgHk
確認した動画: 竹内まりや - カムフラージュ(Official Music Video)(竹内まりや - Mariya Takeuchi Official YouTube Channel)

大石セレクション:曲がいい ★★★★★

  • 曲がいい:★★★★★
  • 歌詞がいい:★★★★☆
  • MVがいい:★★★☆☆

選定理由:竹内まりやの楽曲群の中で、これほどはっきりとしたマイナー調の曲は多くない。しかも編曲は山下達郎で、彼らしい緻密なコーラスワークとリズムの組み立てが、単なる「暗い曲」で終わらせず、聴くほどに発見のある構造を作り上げている。歌詞やMVもそれぞれ魅力的だが、「まりや自身の作曲と、達郎の編曲がぶつかって生まれる化学反応」を語れる強さという点で、主視点は曲がいいに置いた。

ある楽曲を、一度は他人に渡し、何年か経ってから自分の声で歌い直す。竹内まりやの「カムフラージュ」は、そういう来歴を持つ曲だと知って、聴こえ方が少し変わった。もともとは中森明菜へ提供したバラードで、それを竹内まりや自身がセルフカバーしたのが、1998年の「カムフラージュ」だという。渡した曲を、時間を置いてもう一度自分の手元に戻す行為には、単なる楽曲提供とは違う何かがある気がする。一度は誰かに預けた感情を、あとになって自分のものとして引き受け直す。そういう遠回りの誠実さを、この曲からは感じる。

竹内まりやにしては珍しいマイナー調で、弦楽器の響きが終始どこか翳って聴こえるのも、この曲が背負っている来歴と無関係ではないのかもしれない。人へ提供する曲というのは、たいてい提供先の歌い手を思い描いて作られるものだろうから、そこには本人の感情がそのままの形では乗っていないはずだ。だが何年か経って、自分の声でもう一度歌い直すとき、当時は距離を置いていたはずの感情が、静かに戻ってくる瞬間があるのではないか。タイトルの「カムフラージュ」は、直訳すれば「偽装」「迷彩」だが、私にはこの曲が、何かを隠すための曲というより、遅れて戻ってきた感情に、あらためて向き合うための曲のように聴こえる。誰かに一度は預けたはずの気持ちを、時間を置いて自分のものとして引き受け直す。そういう遠回りの誠実さの記録として、この曲を聴き直してみたい。旋律のどこか奥まったところに、まだ言い切れていない何かが残っているように感じるのは、たぶん私だけではないと思う。

フジテレビ系ドラマ『眠れる森』主題歌として

「カムフラージュ/Winter Lovers」は、1998年11月18日にムーン・レコードからリリースされた竹内まりやの27thシングルとされる。「カムフラージュ」はフジテレビ系ドラマ『眠れる森』の主題歌として起用され、カップリングの「Winter Lovers」は明治「メルティーキッス」のCMソングとして使われたという。両A面という構成もあってか、当時の資料ではオリコン週間シングルチャートで1位を獲得したと紹介されており、竹内まりやにとって久しぶりのヒット作になったようだ。総売上は数十万枚規模に達したと伝えられているが、正確な枚数は資料によって幅があるため、ここでは断定を避けておきたい。

ミュージックビデオも、この曲にしては珍しく本格的に作り込まれ、森の中を静かに歩く竹内まりやの姿と、どこか異国の家族の暮らしぶりを重ねるように編集されていたと伝えられている(参考リンク参照)。*1家族の食卓や、何気ない日常の一場面がフィルムに挟み込まれる構成は、ドラマ『眠れる森』の物語とはまた別に、この曲そのものが持つ「静かな生活の中に潜む複雑な感情」というテーマを補強しているように見える。派手な演出のない、抑制された映像だからこそ、旋律の翳りがより際立って伝わってくるのだと思う。

興味深いのは、シングル自体が両A面という異例の構成をとっていた点だ。「Winter Lovers」がCMソングとして広く知られる明るい曲調だったのに対し、「カムフラージュ」はドラマの主題歌として、より内省的な役割を担っていたように見える。同じジャケットの中に、対照的な二つの曲を収めることで、リスナーは明るさと翳りを行き来しながら聴くことになる。片方だけでは伝わらない複雑さを、二曲一組で表現しようとした構成だったのかもしれない。そう考えると、「カムフラージュ」が単独で背負っていた重さも、また違って見えてくる。ドラマの主題歌という役割を担いながらも、曲そのものは物語の外側でも成立するだけの強度を持っていたからこそ、後年になっても歌い継がれているのだろう。

一度手放した曲を、もう一度歌う

「カムフラージュ」というタイトルは、直訳すれば「偽装」「隠すこと」だが、この曲で覆い隠されているのは、悪意ではなく、まだ整理のつかない感情のように聴こえる。誰かへ差し出した曲を、時間を経て自分で歌い直すというのは、当時言葉にできなかったものに、遅れてもう一度向き合う作業に近いのではないか。楽曲提供という形で一度は距離を置いた感情を、何年か後に自分の声で引き受け直す。そのとき歌い手は、かつての自分と、今の自分の両方を同時に生きることになる。マイナー調の旋律の下を、ゆったりと歩くようなリズムが流れていくのは、その二重の時間を行き来する足取りのように、私には聴こえる。

提供曲というのは、本来、書いた本人の感情そのものではなく、歌う人の物語として仕立て直されるものだろう。だから中森明菜が歌ったときの「カムフラージュ」と、竹内まりや自身が歌い直した「カムフラージュ」は、同じ旋律でありながら、まったく違う距離感を持っているはずだ。前者は他人の物語として、後者は自分の物語として。その二つの距離を行き来できる曲というのは、そう多くない。一度手放したことで曲そのものが成熟し、時間を経てから歌い手のもとへ戻ってくる。そういう遠回りの完成のあり方が、この曲にはあるように思う。

竹内まりやはこれまでにも、自ら作った楽曲を他のアーティストに提供し、後年になってセルフカバーとして歌い直す例をいくつか残していると伝えられている。書いたときの自分と、歌い直すときの自分の間には、当然ながら年月による変化がある。声の質感も、感情の置き方も、少しずつ違っているはずだ。それでも旋律そのものは変わらないまま残り続ける。変わらない旋律の上に、変わった自分の声を重ねる。その重なりのずれこそが、セルフカバーという行為の面白さであり、同時に切なさでもあるのだろう。「カムフラージュ」を聴くとき、私はその二重の時間の重なりを、意識せずにはいられない。

東京で覚えた、遅れて引き受ける感覚

東京で働いていた頃、渡した仕事や任せた判断を、あとになって自分の手元に引き戻す場面が何度かあった。その場では正しいと思って手放したことが、時間が経つと、もう一度自分で確かめたくなる。感情も同じで、忙しさの中で押し流してしまったものを、何年か後にふと思い出して、あらためて向き合い直す瞬間がある。「カムフラージュ」という一度は人の手に渡った曲を自分で歌い直す構図は、そういう遅れてやってくる引き受け方と、どこか重なる気がしている。隠していたのではなく、順番が来るまで待っていただけなのかもしれない。

仕事を離れる決断をしたときも、似た感覚があった。東京にいる間は、目の前の案件をこなすことに追われて、自分がどう感じているかをじっくり確かめる余裕がなかった。磐田へ戻ってから、ようやくその頃の感情を、遅れて取り出せるようになった気がする。当時は「隠していた」というより、単に順番が回ってこなかっただけだったのだと、今になって思う。本心を覆い隠すことは、必ずしも不誠実ではない。まだ自分でも扱いきれない感情を、扱えるようになるまで寝かせておくことも、ひとつの誠実さの形なのだと、この曲を聴きながら考える。

当時の同僚や取引先の中には、自分の意見をすぐに言葉にできる人もいれば、時間を置いてからようやく本音を口にする人もいた。私はどちらかというと後者に近く、その場では当たり障りのない受け答えをして、あとになってから、本当はどう思っていたかを整理し直すことが多かった。それを優柔不断だと言う人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。すぐに言葉にできないことと、感じていないことは、まったく別の話だ。むしろ、すぐには言葉にならないものほど、あとになって重みを増して戻ってくることがある。「カムフラージュ」を聴くたびに、そういう自分の時間の使い方を、肯定してもらえるような気がする。

今、磐田で仕事をしていると、東京にいた頃よりも時間の流れがゆるやかで、一つひとつの案件にじっくり向き合う余白がある。だからこそ、あの頃うまく処理しきれなかった感情に、あらためて向き合い直す機会も増えた。土地の相談も、家の相談も、即断即決を求められる場面は意外と少なく、むしろ相談に来た方がご自身のペースで気持ちを整理していくのを、こちらが急かさずに待つことのほうが多い。急いで結論を出させることが親切とは限らない。むしろ、遅れて戻ってくる本心を、そのまま受け止められる余白を残しておくことのほうが、大事な仕事なのかもしれないと、この曲を聴きながらあらためて思う。

磐田の家と土地に、遅れて向き合う人たち

磐田で家や土地の相談を受けていると、何年も前に一度は棚上げにした問題に、遅れて向き合いに来る方によく会う。親から継いだ家をどうするか、当時は結論を出せずに時間だけが過ぎ、ようやく今になって腰を据えて考え始める。そういう方たちは、決して本心を隠していたわけではなく、その時にはまだ引き受ける準備ができていなかっただけなのだと思う。一度手放したものを、もう一度自分の手で歌い直すように向き合い直す。「カムフラージュ」という曲を通して、そうした遅れてくる誠実さの形を、あらためて考えさせられる。

家族の中でも、同じようなことが起きる。空き家になった実家をどうするか、親が元気なうちには言い出せなかった話を、何年か経ってから兄弟であらためて話し合う、という相談を受けることは少なくない。当時言えなかったのは、隠していたからではなく、まだ言葉にする準備ができていなかったからだろう。土地や家の話は、感情の整理がついて初めて前に進められる部分が大きい。竹内まりやが一度手放した曲を自分の声で歌い直したように、家族もまた、時間を置いてから、かつての感情を自分たちの手で歌い直すようにして、ようやく次の一歩を踏み出せるのかもしれない。

自分の家族についても、似たようなことを思う。子どもたちにまだ話せていないことや、親にきちんと伝えられていない感謝の言葉が、いくつも心の中に置かれたままになっている。それをすぐに言葉にできないのは、隠しているからではなく、まだうまく形にできないからだ。だが、いつか適切な順番が来たときに、遅れてでも自分の言葉で伝え直せればいいと思っている。「カムフラージュ」という曲が、一度は手放した感情を何年も経ってから自分の声で歌い直したように、私もまた、いつか自分の家族に、遅れてでも本心を届け直したい。土地や家の相談を受ける仕事をしているからこそ、そのことをより強く意識するようになった。

磐田という土地に根を下ろしてから、そういう遅れてくる感情を急かさずに待つことの大切さを、少しずつ学んできたように思う。土地も家も家族も、すぐに答えの出ないことのほうが多い。そのときは無理に結論を出さず、いったん手放しておいて、機が熟したときにもう一度自分の手で歌い直せばいい。急いで蓋を開けるより、そっと閉じたまま持ち歩くほうが、うまくいくこともある。「カムフラージュ」という一曲が教えてくれるのは、隠すことと、待つことは、必ずしも同じではないという、ごく静かな事実なのかもしれない。

ATAWI MUSICは、音楽を消費するサイトではありません。曲をきっかけに、遅れて向き合った記憶を読み直す場所です。

*1 リリース日・チャート成績・タイアップ・セルフカバーの経緯については、以下を参考にしました(記述内容の一部はサイトにより表現が異なるため、幅を持たせて記載しています)。

参考リンク