「美しい顔って(笑)いい曲です」
この一言から始まるこの楽曲の持つ比類なき魅力を、単なるおしゃれなシティポップとして消費するだけではあまりにももったいない。タイトルだけを見ると、容姿の美醜をストレートに肯定するかのような気恥ずかしさを覚えるかもしれない。しかし、実際にイヤホンから流れ出すきらびやかなメロディと、土岐麻子のどこか乾いた、それでいて聴き手を優しく包み込む不思議な質感の歌声に身をゆだねていると、その照れくささは瞬く間に洗練された都会の風へと昇華されていく。
「美しい顔」は、土岐麻子が2019年10月2日にリリースしたオリジナルアルバム『PASSION BLUE』のリードトラックである。このアルバムは、『PINK』『SAFARI』に続く「シティポップ三部作」の完結編を飾る極めて重要な楽曲だ。サウンドプロデュースおよび作曲・編曲を務めたのはトオミヨウ。カッティングエッジな電子ビートときらびやかなシンセサイザー、身体を深く揺らすベースグルーヴが絶妙に配合された本作は、2019年から2020年にかけての都市音楽を代表する傑作として高く評価された。
しかし、このスタイリッシュなサウンドの底流には、現代社会が求める「外見への過剰な執着」に対する、極めて鋭く、かつ温かい眼差しが潜んでいる。土岐麻子自身が作詞を手がけたこの曲は、ドキュメンタリー番組で美容整形手術に臨む若い女性の姿に衝撃を受けたことから着想を得て作られた。「100年後の未来」というSF的な設定を取り入れ、未来を生きる孫が、かつて2019年の抑圧的な空気の中で自らの顔を変える選択をした祖母の昔の画像を見つめ、当時の生きづらさに思いを馳せるという、切なくも客観的な物語構造を持っている。この歌は、外見を変える選択をした人を批判するためのものではない。むしろ他者のものさしに縛り付けざるを得なかった人々の孤独にそっと寄り添う、静かなる祈りの歌なのだ。
この歌を聴いていると、かつて東京という巨大な記号の街で何者かになろうともがいていた頃の記憶と、今、静岡県磐田市で介護と不動産という生身の人生に直結する仕事に向き合っている自分自身の歩みが、静かに重なり合っていくのを感じる。それは表面的なメッキが剥がれ落ちた後にこそ現れる、人間や街の「本当の顔」を見つめ直すプロセスでもあるのだ。
東京という「見られる街」の虚飾と、鎧としての自己表現
若い頃の東京は、とにかく刺激に満ちていて、それと同時に息が詰まるほど「見られること」を意識させる街だった。何者かになりたくて、自分の価値を証明したくて、誰もが必死に自分を装飾していた。渋谷や新宿の雑踏を歩くとき、あるいは深夜のオフィスビルから這い出るようにして乗った電車の窓に映る自分の顔を見つめるとき、いつもそこには「何者かでなければならない」という無言の圧迫感があった。洗練された服を着て、都会のトレンドに遅れまいと必死にしがみつき、強く賢く、そして何よりも「美しく」見せることが、あの過酷な街を生き抜くための不可欠な鎧だったのだ。
「美しい顔」というタイトルが内包する「(笑)」というニュアンスは、そうした都会の虚飾に対する、大人の照れ隠しと皮肉のようなものかもしれない。東京で暮らしていると、本音で生きることや、自分の弱さをありのままにさらけ出すことがひどく困難に感じられる。誰かに認められるための「完璧な顔」を作り続けなければ、その流れの速い街に呑み込まれて消えてしまうような錯覚に陥るからだ。土岐麻子の歌声は、そうした張り詰めた都会の夜に、驚くほど自然に溶け込む。彼女のボーカルは、過剰に感情を揺さぶったり、無理に涙を誘ったりはしない。一定のクールな距離感を保ちながら、乾いた都会の夜気のようにそっと鼓膜を撫でる。その「押し付けなさ」こそが、東京の冷たいアスファルトの上で一人で踏ん張っていた頃の自分を、どれほど静かに救ってくれたか分からない。
トオミヨウによる緻密なシンセアレンジと、低音域を這うファンキーなベースラインは、まるで東京の夜景そのものを音像化したかのように流麗だ。しかし、そのきらびやかなアレンジの裏側には、決して光に照らされることのない個人の孤独や、自己同一性を維持するための葛藤がしっかりと刻み込まれている。どれほど見た目を飾り立てても、心の奥底にある寂しさや不安は消えない。それでもなお、折れずに歩みを進めようとする人々の足取りを、この洗練されたビートは力強く鼓舞してくれる。都会的であるということは、単におしゃれであるということではない。それは、泥臭い葛藤や孤独を抱えながらも、それを決して他者に見せず、軽やかにステップを踏み続けるという「やさしい強さ」のことなのだ。
軽快なグルーヴが隠す、呪いからの解放という祈りの力
「美しい顔」という楽曲が提示する最大の音楽的マジックは、 lookism(外見至上主義)やジェンダーに対する社会規範という非常に重くシリアスなテーマを、驚くほどダンサブルでキャッチーなポップスへと仕立て上げている点にある。もしこのテーマが、暗く沈み込むようなバラードや、悲痛な叫びを伴うフォークソングとして歌われていたなら、それは時に息苦しい説教のように響いてしまったかもしれない。しかし、この曲は違う。躍動感あふれる電子ビートと、どこか祝祭感すら漂う華やかなメロディラインが、歌詞の持つ切実さを軽やかに包み込んでいる。
この「重いテーマを軽く歌う」というアプローチこそが、ポップミュージックの本質であり、同時に聴き手を縛り付ける「呪い」を解き放つための最良の手法なのだろう。社会が求める「美しさの定義」という呪縛にがんじがらめになり、涙を流していた女性たちの苦しみを、重苦しい言葉で糾弾するのではなく、ただ「そんな窮屈なルールからは、もう踊りながら逃げてしまおう」と促すような解放感がここにはある。土岐麻子の歌声は、その脱出を先導するわけではなく、ただ隣で並走しながら「そうだよね」とそっと語りかけてくれるような絶対的な安心感をもたらす。
この感情の温度感が、日々の忙しい業務や深夜の事務作業の中で、張り詰めた頭を整えるための作業BGMとしても極めて優秀である理由だ。経営者としての孤独や、新しいWEB制作の作業中など、考えすぎて思考が硬直してしまいそうな瞬間にこの曲を流すと、程よい浮遊感と心地よいリズムが頭の中に適度な「余白」を作り出してくれる。感情を煽らず、しかし静かにエネルギーを補給してくれるこのサウンドは、ただのBGMを超えて、現代の複雑な社会を生きる大人のための「精神のチューニングツール」として機能しているのだ。
磐田への帰郷と、介護の現場で見出す「真の顔立ち」
東京での生活に区切りをつけ、故郷である静岡県磐田市に戻ってから、私の視界に入るものは大きく変わった。東京のような、常に誰かに見られていることを前提とした自己演出の必要性は薄れ、代わりにそこにあったのは、季節の移り変わりや、地域に根ざして暮らす人々の地道な生活の営みだった。そして、介護事業という仕事を通じて高齢者やそのご家族の人生の最末期に寄り添うようになったとき、私の中で「美しさ」や「尊厳」に対する定義は根底から覆されることになった。
介護の現場で出会うおじいちゃんやおばあちゃんたちの顔は、当然ながら若々しくもないし、世間一般のビューティー基準から見れば、シミやシワだらけで衰えているかもしれない。しかし、その深く刻まれたシワの一つひとつには、その人がこれまでの長い人生で重ねてきた笑いの日々、乗り越えてきた困難、家族を守り抜いてきた確かな時間の蓄積が克明に刻み込まれている。車椅子に腰掛け、少し遠い目をして昔の思い出を語る入居者様の表情や、言葉を失ってもなお、家族の手を握り返すときの優しい眼差し。そこにある顔は、人工的に整えられたどんな端正な容姿よりも、息をのむほどに美しい。
「美しい顔」の中で、100年後の未来から祖母の整形前の姿を思う孫の視点は、まさに介護の現場で私たちが抱く感情と強く共鳴する。社会の理不尽な圧力に抗いながら、なんとか自分を保ち、生き抜こうとした先人たちの選択。たとえそれが、時代の歪んだ価値観に翻弄された結果の美容整形であったとしても、その背景にある「生きたい」「愛されたい」と願った切実な意思そのものは、決して汚されることのない人間的な営みである。私たちは、高齢者の方々の衰えゆく身体や記憶の先に、その人が生きてきた軌跡のすべてを認め、肯定したいと願う。本当の「美しい顔」とは、生まれ持った骨格や皮膚の張りなどではなく、その人生の履歴書がそのまま表出した、唯一無二の表情の中にこそ宿るものなのだ。
歳月を経た家と土地に宿る、外見を超えた家族の記憶の堆積
この「外見の奥にある本質的な価値を見出す」という姿勢は、私が手掛けているもう一つの事業である不動産、とりわけ相続した実家の整理や空き家問題に対するアプローチにも全く同じことが言える。
磐田やその周辺の遠州地域を歩いていると、多くの「空き家」や古びた実家に出会う。第三者や効率性を重視する買い取り業者の目から見れば、それらは「価値のない古い建物」であり、雨漏りのリスクや解体費用というマイナスの要素ばかりが目につく「見栄えの悪い物件」に過ぎないかもしれない。しかし、その家を相続し、どのように処分すべきか思い悩んでいるご家族にとっては、その古い家は単なる不動産商品ではないのだ。柱に刻まれた子供たちの成長の記録、使い込まれて黒ずんだ台所の流し台、家族が揃って食事を囲んだ居間の畳の擦り切れ。そこには、数十年という歳月をかけて紡がれてきた、かけがえのない家族の日常と記憶が、壁紙の変色や床のきしみとなって今も静かに呼吸している。
家を片付け、手放すという決断を迫られる人々は、まるで「美しい顔」の歌詞に登場する、自らの姿を変えざるを得なかった人々と同様に、時代の変化や家族の解体という大きな波の中で苦悩している。そのような方々に対して、「いくらで売れるか」「損をしないか」という数字の論理だけで迫ることは、その家が持っていた美しい記憶の歴史を土足で踏みにじる行為に等しい。私たち不動産に携わる者がなすべきことは、まずその建物が重ねてきた年月を敬意を持って見つめ、ご家族がそこにあった時間を少しだけ振り返り、納得して次の一歩を踏み出せるように伴走することだ。
古びて傷だらけになった柱や、手入れの行き届かなくなった庭園は、一見すると「美しくない」かもしれない。しかし、そこにはかつて確かに存在した温かな生活の体温が宿っている。他者の目を気にして新しいもの、見栄えの良いものばかりを追う現代社会だからこそ、私たちはその古びたものの奥底にある、家族の歴史という名の本当の「美しさ」を救い上げ、次の世代へと繋いでいく役割を担わなければならない。「美しい顔」を聴きながら、私たちは今日もそれぞれの持ち場で仕事に向き合う。表面的な流行や他人の評価に惑わされることなく、目の前にある本当に美しいものを見落とさないように。そして、いつか自分たちも歳を重ね、古い写真の登場人物のようになったとき、未来の誰かから「なんて美しい人生を生きたのだろう」と、優しい眼差しで見つめてもらえるような、今日という日を丁寧に積み重ねていきたい。
音楽が昔の街や自分を思い出させてくれるように、家や土地にも、誰かの時間が残っています。
磐田市周辺で、相続した実家・空き家・土地建物の整理に悩んでいる方は、富士ヶ丘サービスまでご相談ください。
家や土地を整理するとき、必要なのは金額だけではないと思っています。そこにあった時間を、少しだけ振り返ってから決めてもいい。そんな大切な節目を、私たちは静かに支えます。