ページ作成日: 2026年7月3日
元にしたYouTubeリンク: https://youtu.be/7XuglSVG0KQ
確認した動画: That Summer(Toki Asako - Topic/公式系チャンネル)

大石セレクション:歌詞がいい ★★★★★

  • 曲がいい:★★★★☆
  • 歌詞がいい:★★★★★
  • MVがいい:★☆☆☆☆

選定理由:トオミヨウによる作編曲は、90年代的な質感を丁寧に再構築した完成度の高いものだが、この曲の核はやはり言葉にある。「その夏」としか名指ししない曖昧さの中に、聴く人それぞれの記憶が入り込む余地があり、具体的な場面描写と説明しすぎない余白が同居している点が際立つ。今回確認できた範囲では公式ミュージックビデオが見当たらず、参照した動画も音源のみのアップロードだったため、MVがいいは低い評価にとどめた。

実家の物置を整理していたら、古いラジカセが出てきたことがある。電池を入れても動かなかったが、蓋を開けるとカセットテープが一本入ったままだった。中身は分からない。おそらく90年代のFM番組を録音したものだろう。そのまま処分するつもりで手に取ったが、結局しばらく机の上に置いたままにしていた。捨てられなかったのは、テープの中身に用があったからではなく、それが「ある時代の空気を閉じ込めた箱」のように見えたからだと思う。土岐麻子の「That Summer」を聴くと、あのラジカセのことをよく思い出す。この曲は、まさにそういう箱のような曲だからだ。90年代的な音の手触りを借りながら、そこに閉じ込められているのは特定の年でも歌詞でもなく、誰かが胸の奥にしまい込んだ、名前のない夏の記憶そのものだ。ある年の夏に去っていった誰かを思い出す、という個人的な体験を歌いながら、聴く側それぞれの記憶の抽斗を静かに開けてしまう。大石浩之がこの曲に惹かれるのは、歌の中の「その夏」が、自分にとっての「その夏」に静かに重なってくるからだ。東京にいた頃の夏、磐田に戻ってからの夏、家族と過ごした夏。どれも当時は特別だと意識していなかったのに、今振り返ると、あの季節にしかなかった手触りがあったと分かる。過ぎ去った夏ほど、あとから美しく思い出される。「That Summer」は、その感覚を丁寧に音にした一曲だと思う。

シティポップ三部作、その最後に置かれた一曲

「That Summer」は、土岐麻子が2019年10月2日にリリースしたアルバム『PASSION BLUE』の7曲目に収録されている[1]。作詞を土岐麻子自身が、作曲・編曲をサウンドプロデューサーのトオミヨウが手がけている。『PASSION BLUE』は、2017年の『PINK』、2018年の『SAFARI』に続き、トオミヨウとともに作り上げてきた、いわゆる「シティポップ三部作」の完結編にあたる作品だと位置づけられている[2][3]。内に秘めた憂鬱(BLUE)と、外にあふれ出しそうな情熱(PASSION)という、相反する言葉をタイトルに掲げたこのアルバムは、単にシティポップというジャンルの意匠をなぞるのではなく、先人たちから受け継いだ音楽の精神性を、現代の視点で描き直そうとする試みだったと評されている[3]。三部作の締めくくりという文脈の中に「That Summer」が置かれていることを踏まえると、この曲は単なる夏歌ではなく、都会で生きる時間の積み重ねそのものを振り返る曲として作られたのだろうと聴こえてくる。三部作という言葉には、一枚のアルバムだけでは語りきれない時間の幅がある。何年もかけて同じ制作陣で作品を積み重ねること自体が、都市で生きる時間の連続性を映す行為だったのではないかとも思えてくる。一曲の中に一つの季節を閉じ込めるのではなく、複数の作品にまたがる長い時間の中に、その季節を位置づけていく。「That Summer」というタイトルの奥行きは、そうした制作の背景を知ることで、より深く感じられるようになる。トオミヨウという作編曲家と長年にわたって共作を重ねてきたことも、この曲の完成度に静かに反映されているように思う。一度きりの共作では生まれ得ない、互いの呼吸を知った上での間合いのようなものが、楽曲の端々から伝わってくる気がする。ソロデビューから15年という節目の年に、この三部作を完結させたという時間の積み重ね方そのものが、「過ぎ去った季節を、あとから振り返る」という「That Summer」のテーマと、静かに響き合っているように感じられる。

90年代の手触りが呼び起こす、名前のない記憶

「That Summer」については、90年代的なサウンドを借りながら、過去の恋への想いを馳せる曲だと紹介されている[1]。実際に聴くと、シンセサイザーの音色やリズムの質感に、平成中期の歌謡曲やJ-POPを思わせる懐かしさがあるように感じられる。ただしそれは単なる再現やノスタルジーの演出にとどまらず、土岐麻子の抑制のきいた歌声によって、記憶というものが持つ手触りそのものへと昇華されているように聴こえる。音楽ナタリーの特集記事では、土岐麻子とトオミヨウのタッグによる『PASSION BLUE』が、オリジナルのシティポップからの連続性と、現代的なネオシティポップへの共感を併せ持つ作品だと語られている[2]。過去の音楽的語彙を借りながら、それを単純に懐古するのではなく、現在の感覚で再構築していく姿勢は、このアルバム全体を貫いているように感じられる。「That Summer」というタイトルは、英語の文法としては「その夏」、つまり話者にとって特別な、ある特定の夏を指す言葉になる。現在進行形の熱狂を歌うのではなく、すでに過ぎ去り、記憶の中でだけ存在する夏を指し示すタイトルであるという点に、この曲の核心があるように思う。過ぎ去ったことによって、かえって輪郭がくっきりと際立つ記憶がある。「That Summer」は、そういう人間の記憶の仕組みを、涼しげな声色とともに丁寧にすくい上げている一曲だと感じる。曲の後半にかけて音数がわずかに増していくように聴こえる構成も、記憶が時間の経過とともに少しずつ色濃くなっていく様子と重なるようで、興味深く感じられる。

忙しさの中では気づけなかった季節の価値

東京で働いていた頃、目の前の仕事に追われている最中は、その季節がどんな色をしていたか、あまり意識していなかった。夏は暑くて、電車は混んでいて、早く終わってほしいとさえ思っていた気がする。それなのに、何年か経ってからふと思い出すのは、いつも当時は気にも留めなかった、些細な光景ばかりだ。誰かと交わした短い会話、帰り道に見た空の色、開けっぱなしの窓から入ってきた夜風。渦中にいるときには気づけない価値が、時間が経ってから初めて姿を現すことがある。「That Summer」というタイトルが持つ、すでに終わった夏を振り返る視点は、そうした人間の感情の仕組みを正確に言い当てているように思える。オリコンなど各種チャートにおける『PASSION BLUE』および「That Summer」単体の具体的な順位は、今回確認できた資料の範囲では特定できなかったが、シティポップ三部作の完結編として音楽メディアで継続的に取り上げられてきたこと自体が、この作品が一定の評価と支持を受けてきたことを示していると考えてよいだろう[2][3]。当時は数字や評価を気にする余裕もなく、ただ目の前の仕事をこなすだけの日々だった。だからこそ、その渦中にあった季節を、あとから静かに振り返る歌が、これほど胸に響くのかもしれない。忙しさの正体は、多くの場合、時間そのものではなく、目の前のことしか見えなくなる視野の狭さだったのだと、今になって思う。当時の手帳を見返すと、予定と締め切りばかりが並んでいて、その隙間にどんな景色があったのかは、ほとんど書き残していない。それでも、記憶というものは律儀で、書き残さなかった景色の方を、なぜか鮮明に覚えていたりする。仕事の内容は忘れても、あの夏の夕方に感じた風の温度や、駅のホームで見た人混みの色は、今でもふと蘇ることがある。「That Summer」を聴いていると、そうした、記録には残らなかったけれど確かにあった時間の断片が、次々と浮かび上がってくる。忙しい日々の中でも、季節はちゃんと動いていた。ただ、それに気づく余裕がなかっただけなのだと、この曲はそっと教えてくれる。

磐田の家で、過ぎ去った夏を数える

磐田に戻ってきてから、季節の移ろいをより身近に感じるようになった。天竜川の向こうに沈む夕日、稲の匂いが変わっていく時期、庭先で家族が交わす何気ない会話。そういうものは、東京で暮らしていたときには気づかなかった種類の豊かさだ。それでも、あの頃の夏を懐かしむ気持ちがなくなったわけではない。むしろ、土地を移り、生活の形が変わったことで、過ぎ去った季節それぞれの輪郭が、以前よりはっきりと見えるようになった気さえする。東京にいた頃は、目の前の一年をこなすだけで精一杯で、季節ごとの違いを味わう余裕はほとんどなかった。磐田に戻り、家族と土地に根ざした暮らしを続けるうちに、季節はただ流れていくものではなく、一つひとつ数えていくべきものだと感じるようになった。子どもが小さかった夏、両親がまだ元気だった夏、仕事に追われるだけで精一杯だった夏。どの夏も、当時はただ通り過ぎていくだけの日々だと思っていたが、今では一つひとつが、かけがえのない「That Summer」として胸の中に並んでいる。過ぎ去った夏ほど、あとから美しく思い出される。それは感傷というより、その季節を確かに生きたことの、静かな証なのだと思う。「That Summer」を聴くたび、磐田の家の窓から見える景色と、遠い日の東京の記憶が、少しだけ重なり合う。

物置のテープを、また閉じる

結局、あの古いラジカセとカセットテープは、今も実家の物置の隅に置いたままになっている。中身を確かめる機会はまだ訪れていないし、もしかしたらこの先も訪れないかもしれない。それでいいのだと、最近は思うようになった。記憶というものは、必ずしも再生して確かめる必要はなく、そこに「ある」というだけで、日々の暮らしを静かに支えてくれることがある。「That Summer」という曲が持つ強さも、同じところにあるように思う。特定の誰かの、特定の恋の記憶を歌いながら、聴く者それぞれの胸の中にある、名前のない夏を静かに呼び覚ましてしまう。土地を離れ、また戻り、家族と暮らす日々を重ねてきた大石浩之にとって、この曲はこれからも、夏が終わるたびに思い出す一曲であり続けるのだろう。過ぎ去った季節を惜しむ気持ちは、決して後ろ向きなものではない。それは、確かにその季節を生きたという、静かな手応えなのだと思う。家業を継ぎ、この土地で家族と暮らしていくと決めてから、夏という季節の数え方が少し変わった気がする。一年のうちのひとつの季節ではなく、暮らしを積み重ねていく単位のひとつとして、夏を数えるようになった。そう考えると、これから先も、いくつもの「That Summer」がまだ自分の中に増えていくのだろう。今日という日も、いつかは誰かにとっての、あるいは自分自身にとっての、静かに美しい「その夏」の一部になっているのかもしれない。そう思うと、目の前の何でもない一日を、もう少し大切に過ごしたくなる。「That Summer」というタイトルにある、たった一言の「That」が指す先には、いつも具体的な誰かの、具体的な季節がある。だからこそこの曲は、聴くたびに違う記憶を連れてくる。今日聴けば今日の記憶が、来年聴けば来年までの記憶が、静かに重なっていくのだろう。物置のテープを開けなくても、その中に何が録音されているか、なんとなく想像がつく気がする日がある。それはきっと、特別な出来事の記録ではなく、ただ過ぎていっただけの、何でもない一日の音だったはずだ。そういう何でもない時間こそが、あとになって「その夏」と呼べる季節を形作っていたのだと、この曲を聴くたびに思い知らされる。