「ハンサム過ぎて」は、作詞をMVディレクターの児玉裕一、作曲を椎名林檎が手がけた楽曲だ[1]。バンド外のクリエイターが作詞を手がけるのは、東京事変にとってこれが初めての試みだったという[1]。この曲はもともとDVDに収録されたミュージックビデオとして発表され、後にバンド解散後にシングルのカップリング曲を集めたコンピレーションアルバム『深夜枠』に収録されている[1]。
映像監督が言葉を書くという、逆転の発想
通常、ミュージックビデオは、すでに完成した楽曲の世界観を、監督が映像として解釈し直す作業だ。しかしこの曲では、その順序が逆転している。児玉裕一という映像作家自身が、自分の撮りたい映像のために言葉を紡ぎ、椎名林檎がその言葉に旋律をつけるという制作過程は[1]、通常のミュージックビデオ制作とは真逆のアプローチだ。この試みが東京事変にとって「バンド外初の作詞クレジット」になったという事実は[1]、この曲がいかに特別な経緯で生まれたかを物語っている。多くのバンドにとって、ミュージックビデオの監督はあくまで「発注先」であり、楽曲の世界観を映像として翻訳する役割にとどまることが多い。しかしこの曲の制作過程は、その力関係を大きく揺さぶるものだった。監督自身が言葉を紡ぎ、それにバンドが旋律をつけるという逆転の構造は、映像作家とミュージシャンが上下関係のない対等なクリエイターとして向き合っていたことを示している。こうした柔軟なコラボレーションを受け入れられる懐の深さも、東京事変というバンドの魅力のひとつだ。
「美しい表面だけを撮った」という、監督の告白
児玉裕一監督は、このMVについて「ハンサムというのは外見のことで、映像が捉えているのは美しい表層の部分だけ。しかし見る人はその奥にあるもの、深層や舞台裏を知りたがっている」という趣旨のコメントを残しているという[1]。「絢爛だが物悲しく残酷な世界」とも評されるこの視点は[1]、映像作家として数多くのミュージックビデオを手がけてきた彼だからこそ持ちえた、鋭い批評性を含んでいる。私たちがミュージックビデオを見るとき、多くの場合、映像の美しさや演出の華やかさに目を奪われる。しかしその奥にある、撮影現場の泥臭さや、アーティストの素顔といった「見えない部分」への渇望も、同時に抱いている。この曲は、そうした視聴者の欲望そのものを、あえて言葉にして突きつけている。「ハンサム過ぎて」というタイトルは、一見すると褒め言葉のようでありながら、実際には「美しすぎることの空虚さ」を指摘する皮肉のニュアンスも含んでいるように読める。歌詞をそのまま引用することは控えるが、この曲が問いかけているのは、表面的な美しさだけでは満たされない、人間の本質への渇望だと感じている。監督自らが言葉を紡いだからこそ生まれた、この映像と歌詞の一体感は、東京事変が持つ、他者とのコラボレーションへの開かれた姿勢を象徴している。
解散後に発見された、隠れた一曲
この曲がDVD収録のミュージックビデオとしてのみ発表された後、バンド解散を経て、カップリング曲を集めたコンピレーションアルバム『深夜枠』に収録されたという経緯は[1]、この曲が長らく「表舞台にはあまり出てこない」隠れた存在だったことを示している。多くのヒット曲やシングル表題曲の陰に隠れがちなこうした楽曲を、丁寧に発掘し、あらためて世に問い直すという行為は、東京事変というバンドの音楽的な財産を大切に扱おうとする姿勢の表れだ。バンド外のクリエイターに作詞という重要な役割を託すという判断は、椎名林檎自身の言葉だけでは届かなかったかもしれない視点を、楽曲の中に招き入れることを意味していた。その開かれた姿勢があったからこそ、この曲は生まれ得たのだと思う。表舞台に出ることの少なかった一曲が、こうして今もYouTubeという新しい形で再び光を浴びていることは、良い音楽が時代や媒体を越えて生き延びていく力を持つことの、何よりの証拠だと思う。
短い言葉の奥に潜む、鋭い批評性
「ハンサム過ぎて」という、一見するとシンプルで軽やかなタイトルの奥に、これほど鋭い映像論・美学論が潜んでいるという事実は、何度読み解いても興味深い。私たちが日常的に消費している映像や写真の多くが、実は「美しい表層だけ」を切り取ったものであるという指摘は、SNSやインターネットが普及した現代においても、色褪せることのない鋭さを持っている。誰かの見た目の美しさに惹かれるとき、私たちは同時に、その奥にある人間性を知りたいと願っている。この曲は、そうした人間の欲望の構造を、静かに言い当てている。加工された画像や演出された姿があふれる今の時代にこそ、この曲が問いかける視点は、あらためて鋭さを増しているように思う。誰もが手軽に美しい表層を発信できる今だからこそ、その奥にある本当の姿を見せ合うことの難しさと尊さを、この曲はあらためて教えてくれる。監督自身がその葛藤を言葉にしたという事実が、この曲に唯一無二の説得力を与えている。埋もれていた才能の結晶を、こうしてあらためて掘り起こす体験そのものが、音楽を聴き続けることの醍醐味なのだと感じる。この曲との出会いも、そうした発掘の喜びのひとつになれば幸いだ。時を越えて再発見される喜びを、これからも多くの人と分かち合いたい。
参考リンク
表面の美しさの奥にある本質を見たいと願うように、住まいの見た目だけでなく、その奥にある暮らしの物語にも目を向けたいものです。
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