ページ作成日: 2026年7月5日
元にしたYouTubeリンク: https://youtu.be/7HgJIAUtICU
確認した動画: Vaundy「踊り子」Music Video(小松菜奈出演・監督:小林光大)

Vaundy「踊り子」を聴くとき、いつも先に浮かぶのは音よりも一つの光景です。誰かがきっかけもなく体を揺らし始める、その最初の数秒。曲はその瞬間のためだけに作られているように鳴ります。2021年11月17日に配信限定でリリースされたこの曲は、Vaundyが同年10月まで行っていたワンマンツアー「HINODE」で、ライブの締めくくりとして先に披露されていたと音楽ナタリーは伝えています[2]。ステージの最後に置かれた曲が、そのままシングルとして独立したという成り立ちは、この曲が最初から「聴く曲」である以上に「その場で起きる曲」として作られたことを想像させます。ミュージックビデオには小松菜奈が起用され、監督は小林光大が務めました[2]。小松は当時のコメントで「私にとっても大好きな曲になりました」と語り、Vaundy自身も撮影に立ち会って和やかな空気の中で制作が進んだと音楽ナタリーは報じています[2]。誰かが理由もなく踊り出す、その説明のつかなさをそのまま映像にした企画だったのだと思います。ATAWI MUSICでこの曲を取り上げるのは、流行の記録としてではありません。理由のない衝動が、なぜ人を動かすのか。その問いが、東京で働いていた頃の自分と、いま磐田で家や土地に向き合う自分の両方に、静かに触れてくるからです。

大石セレクション:曲がいい ★★★★★

  • 曲がいい:★★★★★
  • 歌詞がいい:★★★☆☆
  • MVがいい:★★★★☆

選定理由:Vaundyはサンレコのインタビューで、この曲を「どのセクションもサビのように聴こえること」を狙って作ったと語っている[1]。実際に聴くと、Aメロの時点ですでに耳を引く跳躍があり、聴き手が気を抜ける場所がどこにもない。派手な転調や仕掛けに頼らず、音数の配分だけで曲全体を高密度に保つという設計は、Men I Trustへの憧れから出発しながら、打ち込みの中に人の呼吸を持ち込もうとした試行錯誤の結果でもある[1]。MVも小松菜奈の表情の変化を軸にした佳作で、曲の「理由のなさ」をよく映しているが、物語としての強度よりも曲の求心力そのものの方が勝ると感じたため、主視点は曲がいいに置いた。

憧れから出発して、憧れではなくなる

Vaundyはサンレコのインタビューで、「踊り子」についてインディポップバンドのMen I Trustのような曲を作りたいという動機から出発したと語っています[1]。誰かに憧れて、その音を自分の手で真似てみる。けれど出来上がったものは、真似のはずなのに真似ではなくなっている。そういう瞬間があります。楽曲はベースとギター以外のほとんどを打ち込みで構成し、ドラムにXLN AudioのAddictive Drums、鍵盤にSpectrasonicsのKeyscapeを使用したと同インタビューで明かされています[1]。音源同士の相性次第では簡単に音が安っぽく聴こえてしまうとも語っており、組み合わせを慎重に選び抜いたことがうかがえます。打ち込みが軸でありながら、聴こえてくる質感はどこか手で弾いているような柔らかさを持っている。それは機材の選定と同じくらい、鳴らす順番や余白の置き方によるものではないかと聴いていて感じます。

東京で働いていた頃、自分にも似た経験がありました。最初は誰かのやり方をそのまま真似ることから仕事を覚えます。上司の言葉遣い、先輩の資料の作り方、業界のやり方。真似ることは恥ずかしいことでも、劣ったことでもありません。むしろ真似を重ねるうちに、いつの間にか自分の癖が入り込み、気づけば誰の真似でもないものになっている。その過程の方が本当は面白いのだと、あとになって分かりました。「踊り子」の打ち込みの向こうに聴こえる柔らかさは、Men I Trustへの憧れをなぞりながらも、Vaundy自身の呼吸に置き換えられていく過程の音のように聴こえます。憧れは終着点ではなく、出発点でしかない。曲を聴くたびに、そのことを思い出します。

面白いのは、この曲がベースとギター以外のほとんどを打ち込みで作られているという事実です。生の演奏の温度を求めるなら、生楽器を増やす方が近道のはずです。それでもVaundyは打ち込みという手段を選び、その中に人の呼吸を持ち込もうとしている。機材の選定を丁寧に語っていることからも、打ち込みだから冷たいという先入観そのものを崩そうとしていたのではないかと想像します。誰かの真似から始まった曲が、機材への向き合い方一つで、誰の真似でもない体温を持ってしまう。その逆転が、この曲の一番静かな見どころなのかもしれません。

全部がサビになるという設計

この曲の構造について、Vaundyは同インタビューで、どのセクションもサビのように印象づくことを意識してメロディを作っていると語っています[1]。Aメロはサビよりも音の高さを保ちながら音数を減らし、Aメロらしい佇まいを保っているとも説明されています[1]。実際に聴いていても、Aメロで気を抜く瞬間がありません。普通なら助走に使われる部分にも、耳を引く跳躍がそのまま置かれている。それでいて曲全体は騒がしくならず、むしろ抑えた音数のまま前へ進んでいきます。これは、盛り上がりを一箇所に集めるのではなく、曲の隅々に薄く配り直しているような設計ではないかと感じます。聴き手はどこで力を抜けばいいのか分からないまま、気づけば体だけが先に動いている。理屈で聴く前に、体が反応してしまう作りだと思います。

ビートに関しても、派手な変化で押し切るのではなく、同じ骨格を反復させながら、その上に乗る声や音色の距離感だけを少しずつ動かしているように聴こえます。反復は、聴き手を飽きさせる危険と隣り合わせです。けれどこの曲では、反復そのものが快感になっている。おそらく、どの一小節を切り取っても曲の顔になり得るという構造そのものが、聴き手を飽きさせない仕組みなのではないでしょうか。全部をサビにするという発想は、力任せの派手さではなく、細部への配慮の積み重ねでできているように感じます。

歌唱についても、力で押し切るのではなく、抑えた発声のまま音の高低だけで表情を作っているように聴こえます。声を張り上げてしまえば、どの部分も同じように熱くなり、結局はサビとそれ以外の差がなくなってしまいます。この曲の歌い方は、熱量を均等に保ちながら、音の置き場所だけで盛り上がりを作っている。抑制の中でしか生まれない緊張感があり、それが曲全体を単調にも過剰にもさせない、絶妙な均衡を保たせているのではないかと感じます。

数字が後から追いついてきた曲

「踊り子」はリリース直後から着実に聴かれ続けた曲だったようです。Billboard JAPANのチャートインサイトによれば、2021年11月24日付のチャートでストリーミングソング39位、ダウンロードソング74位、Hot 100では35位で初登場し、翌週の12月1日付でストリーミングソング11位まで上昇したと報じられています[4]。派手な初登場ではなく、じわじわと聴かれる範囲が広がっていった軌跡がうかがえます。Billboard JAPANの報道によれば、2022年にはストリーミング累計再生数が1億回を突破し、当時Vaundyにとって最速の到達記録になったとされています[5]。その後も聴かれ続け、2024年にはストリーミング累計3億回を超えたことが同メディアで報じられています[6]。さらに2024年には、韓国のガールグループNewJeansのメンバーであるミンジが東京ドームでのファンミーティングやテレビ番組でこの曲をカバーしたことをきっかけに、韓国国内でのストリーミング再生数が大きく伸びたとも伝えられています[7]。数字は曲を作った瞬間には存在しません。何年もかけて、聴いた人の生活の中を通り抜けながら、後からゆっくり積み上がっていくものなのだと、この曲の軌跡を見ていると感じます。

東京で仕事をしていた頃の、体の記憶

東京で働いていた時期、理由もなく体が動く瞬間は、実はあまり多くありませんでした。会議のための移動、締め切りに追われる残業、人に会うための身支度。体を動かす理由は、たいてい外から与えられていました。自分の意志で、ただ楽しいから体を揺らすという時間は、思っていたより少なかったように思います。「踊り子」のミュージックビデオで小松菜奈が踊る姿を見ると、そこにあるのは目的のない動きです。誰かに見せるためでも、評価されるためでもなく、ただ体が音に応えている。その自由さに、当時の自分は羨望に近いものを感じていたかもしれません。仕事はいつも理由を求めてきます。なぜそれをするのか、何のためにやるのか。理由のない行動は、評価の対象になりません。けれど人はときどき、理由のない動きの中でしか本当の自分に戻れないこともあります。この曲が長く聴かれ続けているのは、そうした理由のなさを肯定してくれるからではないかと思います。

磐田で、理由のない動きを信じること

磐田に戻り、家や土地の仕事をするようになってから、理由のない動きについて考える機会がむしろ増えました。空き家の片づけをしていると、なぜ残されていたのか説明のつかない物に出会うことがあります。使われていない古い食器、色あせた写真、誰も弾かなくなった楽器。合理的に考えれば処分すればいいものですが、そこに宿っていた誰かの時間を思うと、簡単には手が動きません。人の暮らしには、説明のつかない愛着や、理由のない繰り返しが確かに存在します。それを切り捨てて効率だけで土地や家を扱うと、暮らしていた人の輪郭まで消えてしまうように感じることがあります。

家族の相談を受けていても、同じことをよく思います。なぜこの家を売らずに残したいのか、なぜこの土地だけは手放したくないのか。理由を尋ねても、はっきりした言葉が返ってこないことがほとんどです。それでも、その説明できなさの奥に、確かにその人の人生の重心があります。仕事として数字や条件を整理することはできても、そこにある理由のなさまで消してしまってはいけないと、この仕事を続けるほどに思うようになりました。

「踊り子」が教えてくれるのは、理由のない動きにこそ人の本当の姿が表れるということかもしれません。曲の中でずっと踊っている踊り子には、はっきりした目的地がありません。それでも踊り続けることに意味があるという佇まいが、この曲の芯にあるように聴こえます。家族が長年暮らした家を前にしたとき、なぜこの家に住み続けたのか、なぜこの土地を離れなかったのか、はっきりした理由が語られないことがよくあります。それでも、そこには確かに続いてきた時間があります。理由を求めすぎず、そこにあった動きそのものを尊重すること。仕事の中で少しずつ身についてきたその姿勢は、この曲を聴くたびに静かに裏打ちされます。

Men I Trustへの憧れから始まり、打ち込みの中に人の呼吸を探し、全部をサビにする構成で聴き手の体を先に動かし、数字が何年もかけて後から追いついてきた曲。「踊り子」の成り立ちを辿ると、そこには理由よりも先に動きがあり、動きの積み重ねの先に評価がついてくるという順番が見えてきます。東京で理由を求められ続けた時間も、磐田で理由のない暮らしの跡に向き合う時間も、この曲の前では同じ地平に並びます。踊ることに理由はいらない。そのことを、何年経っても静かに思い出させてくれる曲です。

数年前に配信された曲が、国境を越えて別の世代の歌い手にまで届き、まだ再生数を伸ばし続けている。その事実だけを見れば、単に息の長いヒット曲という言い方もできます。けれどこの曲の場合、息が長いこと自体が、理由のない動きの正しさを裏付けているように感じられてなりません。売れるために作られた仕掛けではなく、誰かに憧れて、体の赴くままに音を積み上げた結果として、後から数字がついてきた。仕事でも暮らしでも、つい先に理由や成果を求めてしまいますが、この曲を聴くたびに、順番を間違えていたのは自分の方だったのかもしれないと思わされます。

参考リンク

理由のないまま体が動く瞬間があるように、家や土地にも、理屈では説明のつかない愛着が残っていることがあります。

静岡県磐田市周辺で、相続した実家・空き家・土地建物の整理にお悩みの方は、富士ヶ丘サービスまでご相談ください。

書いた人

大石浩之。静岡県磐田市で、介護と不動産の仕事をしています。 若い頃に東京で過ごした時間、仕事の中で見てきた家族や街の記憶、 そして今暮らす磐田で感じることを、音楽をきっかけに書いています。

音楽は、過去の自分に会いに行くための入口です。 家や土地もまた、誰かの記憶が残る場所だと思っています。