「おもかげ」という曲には、もう一つの姿がある。2021年12月17日、milet、Aimer、幾田りらという3人のシンガーが歌う楽曲「おもかげ(produced by Vaundy)」として配信リリースされ、YouTubeチャンネル「THE FIRST TAKE」でのコラボレーション・パフォーマンスとして公開された[1]。作詞・作曲・編曲・プロデュースを手がけたのはVaundyで、この曲はソニーの完全ワイヤレスイヤホン「WF-1000XM4」のCMソングとしても起用されている[2]。作り手として名前を出さず、3人のシンガーの声にすべてを託した曲が、多くの人に届いた。その約2ヶ月後、2022年2月23日発売のVaundyのCD「裸の勇者」に、作った本人自身の声による「おもかげ -self cover-」が収録された[2]。3人の声で立ち上げられた曲を、生みの親が一人で歌い直す。このセルフカバー版は、NHK総合「LIFE!」のスピンオフドラマ「事件は、その周りで起きている」の主題歌としても使われている[3]。渡した曲がどう育っていったのかを確かめるように、自分の声でもう一度なぞる。人に託した仕事を、時間を置いてもう一度、自分の手に取り戻す。そういう行為に近いものを、この曲の成り立ちから感じている。曲そのものの記憶と、それを手放し、また引き取り直した記憶と。二重になったこの曲を、今日は自分の暮らしと重ねながら聴いてみたい。
3人に託した曲を、自分の声で歌い直す
「おもかげ」は最初から、Vaundyが自分で歌う前提の曲ではなかったはずだ。milet、Aimer、幾田りらという、それぞれ異なる声質と表現を持つ3人のために書き、編み、渡した曲だった。3人がハーモニーを重ねて歌う原曲は、ソニーのCMというタイアップの器の中で、多くの人に届いた曲になっている[2]。作曲・編曲・プロデュースという形で深く関わりながら、歌い手としては前に出ない。そういう距離の取り方を、この曲では選んでいたのだと思う。それでも、Vaundyはこの曲を自分のCDに、自分の声で、もう一度収める道を選んだ[2]。渡したものをもう一度引き取り、自分の輪郭で歌い直す。そこにあるのは、作品を人に委ねたあとでもなお残る、自分自身との距離を測り直したいという気持ちだったのではないかと聴こえてくる。一度人の声に馴染んだ言葉を、自分の口でもう一度発音し直す。その作業は、単に懐かしむための再演ではなく、渡した瞬間には測りきれなかった曲の重さを、あとから確かめ直す作業に近いのではないか。誰かに託した瞬間、作品は作り手のものであると同時に、少しずつ託された側のものにもなっていく。その変化を経たあとの曲を、もう一度自分の声で受け止め直す。セルフカバーというかたちには、そういう往復の跡が刻まれているように聴こえる。3人のシンガーがそれぞれの表現でこの曲を歌い切ったあと、作り手が自分の声で歌い直すことに、どれほどの意味があるのかと問われれば、答えは簡単ではないかもしれない。それでも、託した仕事の続きを自分でも見届けたいという気持ちは、ものを作る人になら誰にでも身に覚えがあるのではないか。誰かに渡した瞬間に完結する仕事もあれば、渡したあとも作り手の中で続いていく仕事もある。「おもかげ」は、後者だったのだと思う。原曲を作った時点のVaundyと、セルフカバーを歌った時点のVaundyとの間には、当然ながら数ヶ月という時間が流れている。同じ人物であっても、その時間の中で、曲に対する見え方も、自分自身の歌との向き合い方も、少しずつ変化していたはずだ。渡した時点の自分と、引き取り直す時点の自分。その間にある小さなずれこそが、この曲をもう一度歌う意味を作り出しているのではないかと思う。
一人の声になったとき、曲の重心はどこに動くか
3人の声が重なる原曲は、それぞれの声の個性が層になって曲を支えている。誰か一人の感情に寄りきらない、開かれた広がりのようなものがそこにはある。声と声がすれ違い、また重なることで生まれる奥行きは、複数の歌い手だからこそ成立するものだ。それに対してセルフカバー版は、Vaundy一人の声だけでこの曲を運んでいく。伴奏の骨格は近くても、声が一つになることで、曲の重心はより内側に、より個人的な場所に寄っていくように聴こえる。広がっていたはずの音像が、一人分の呼吸の中に収束していく感覚と言えばいいだろうか。人に渡した言葉を自分の口でなぞる時、そこには単なる再演とは違う、確認するような響きが混じる。自分が何を書いていたのか、渡した後の曲がどう育っていったのかを、歌いながら測り直しているような手触りがある。同じメロディ、同じ言葉でありながら、歌う人数が変わるだけでここまで印象が変わるのかと、聴くたびに思う。作り手自身の声には、他の誰が歌っても出せない、曲が生まれた瞬間そのものの手触りが残っているように感じられる。それは技術的な巧拙の話ではない。曲を最初に思いついた瞬間の記憶、言葉を選んだ時の理由、メロディの一つ一つに込めた意図。それらは、どれだけ優れた歌い手が歌っても再現できない、作り手だけが持つ固有の情報だ。セルフカバーを聴くという行為は、その固有の情報にもう一度触れる機会を与えられているということでもある。原曲を先に知っている耳には、この一人の声のバージョンが、答え合わせのようにも、種明かしのようにも聴こえてくる。3人の声の広がりを先に知ってしまうと、一人の声で歌われるこの曲は、最初は少し寂しく響くかもしれない。けれど聴き進めるうちに、その寂しさの奥に、作り手が一人で抱えてきたはずの感情の芯のようなものが見えてくる。3人で分かち合っていた重さを、今度は一人で引き受け直す。その不均衡さこそが、セルフカバーというかたちの持つ、静かな緊張感を生んでいるのだと思う。曲としての完成度は、この構造の強さに支えられている。派手なアレンジ変更で耳目を引くタイプの再録ではなく、同じ骨格を保ったまま歌い手の人数だけを変えるという、いわば実験に近いアプローチだ。それでいて聴後感がまったく違うものになるのは、曲そのものの作り込みがしっかりしている証拠でもある。
「おもかげ」という言葉が指す、まだ形になっていない誰か
この曲の歌詞に丸ごと触れることはしないが、そのかわりに歌詞が描いている時間と関係について考えてみたい。「おもかげ」というタイトルそのものが、すでに一つの答えを含んでいる。それは今そこにいる誰かではなく、記憶の中にしか残っていない誰かの気配を指す言葉だ。目の前にいない人の輪郭を、心の中でなぞり続ける。そういう時間の流れ方が、このタイトル一語に凝縮されている。3人のシンガーが歌う原曲では、それぞれの声質の違いによって、この「おもかげ」という言葉が複数の距離感で立ち上がってくる。ある声では恋愛の記憶として、ある声では家族や友人の記憶として、聴き手によって重ねる相手が変わる余地があった。セルフカバー版では、その余地が一人の声に絞り込まれることで、より内省的な響きに変わる。誰かに向けた言葉というより、自分自身の記憶に向き合う独白に近くなる。この歌詞が優れているのは、具体的な人物や情景を名指ししない書き方をしていることだと思う。誰の顔も、どんな別れ方をしたのかも、明言されない。だからこそ、聴く人それぞれが自分の記憶にある「おもかげ」を重ねられる。NHKドラマ「事件は、その周りで起きている」の主題歌に起用されたという経緯も[3]、この歌詞が持つ、特定の物語に固定されない開かれた作りと無関係ではないだろう。ドラマという別の物語の器に置かれても、歌詞の意味が壊れずに機能する。それは、言葉が説明しすぎていないからこそ可能になっていることだ。そして何より、この曲の歌詞を特別なものにしているのは、曲が生まれた経緯そのものと言葉の内容が響き合っている点だ。誰かに託し、そして自分の手に引き取り直すという制作の物語自体が、「おもかげ」という言葉が持つ、失ったものをもう一度心の中でなぞり直すという行為と、静かに重なって聴こえてくる。歌詞の中の言葉が誰かとの記憶を描いているのだとしたら、この曲を作ったVaundy自身にとっては、3人に託した曲の記憶そのものが、もう一つの「おもかげ」だったのかもしれない。そう考えると、セルフカバーというかたちを選んだこと自体が、歌詞のテーマを二重に体現する行為だったように思えてくる。
東京で預けた仕事、あとから引き取る感覚
東京で働いていた頃、一度形にして人の手に渡した企画が、時間を置いて自分のところに戻ってくることがあった。渡した時点では気づかなかった価値や、逆に見落としていた粗が、戻ってきてはじめて見えることがある。自分の手を離れた仕事を、離れたままにしておくか、もう一度引き取って手を入れ直すか。その判断には、単なる完成度の問題を超えた、自分自身とその仕事との距離感が関わってくる。任せた相手が育ててくれた部分もあれば、自分が想定していた形とは違う方向に育っていた部分もある。どちらであっても、もう一度自分の手で触れてみないことには、その仕事が今どんな姿をしているのか、本当のところはわからない。「おもかげ -self cover-」を聴くと、あの頃引き取り直した仕事の手触りを思い出す。人に渡したことを後悔しているわけではない。渡したからこそ生まれた広がりがあったことも、よくわかっている。ただ、もう一度自分の手で確かめたい瞬間が、誰にでもあるということだ。渡した仕事の続きを、渡した本人がどこかで引き取り直す。その往復があってはじめて、一つの仕事は本当に自分のものになるのかもしれない。当時は気づかなかったが、あとから振り返ると、渡した仕事を引き取り直すタイミングというのは、自分自身の中で何かが一区切りついた時に訪れるものだったように思う。忙しさに追われている最中には、過去に手放したものを振り返る余裕などない。少し立ち止まれるようになって初めて、あの時渡したものが今どうなっているのか、確かめたくなる。「おもかげ -self cover-」というかたちを取ったVaundyの選択にも、そういう一区切りのタイミングがあったのではないかと想像している。前へ前へと進み続けることだけが仕事の証ではない。時々立ち止まって、これまで渡してきたものを振り返り、必要なら手元に引き取り直す。そういう仕事の仕方があってもいいのだと、この曲は静かに教えてくれる。
磐田で、家や土地をもう一度引き受け直す
磐田で家や土地の相談を受けていると、以前に一度関わった案件に、何年も経ってからもう一度向き合うことがある。親が誰かに託した土地、家族の誰かが一度手放そうとした家。手を離れたはずのものが、巡り巡って自分のところに戻ってくる時、そこには単なる不動産の話を超えた感情が必ず動いている。渡した側にも、引き取り直す側にも、それぞれの理由がある。一度は別の誰かに任せると決めたはずのものに、なぜまた自分で向き合おうと思ったのか。その理由を聞くたびに、そこには単なる事情の変化以上の、その人自身の気持ちの動きがあることに気づかされる。「おもかげ -self cover-」が示しているのは、一度人に託した作品を、作った本人がもう一度自分の声で引き受け直すという、静かだが確かな選択だ。家族のかたちも、仕事の預け先も、時間とともに変わっていく。人に託した時点の判断が間違っていたわけではない。ただ、時間が経てば、託した本人の中でもその作品や土地に対する気持ちは変わっていく。それでも、最初に作った人にしか歌えない部分、最初に暮らした人にしかわからない土地の手触りは、たしかに残る。磐田の家や土地の相談の中で、そのことを何度も思い知らされてきた。一度手放したものを、もう一度自分の手に取り戻す。そこには、後悔とは違う、静かな覚悟のようなものが必要になる。「おもかげ -self cover-」を聴くと、その覚悟の静かさを思い出す。家や土地には、いつも複数の人の記憶が層になって積み重なっている。建てた人の記憶、住んだ人の記憶、手放すと決めた人の記憶。そのどれか一つだけが正しいということはなく、すべてが少しずつ重なりながら、その場所の輪郭を作っている。「おもかげ」という曲が、3人の声で歌われたバージョンと、Vaundy一人の声で歌われたバージョンの両方を持っているように、一つの家や土地にも、託した人にしか語れない記憶と、引き取り直した人にしか語れない記憶とが、両方とも確かに存在している。磐田で日々そうした相談に向き合いながら、この曲を聴くと、その両方の記憶に静かに耳を澄ませたくなる。生みの親が、自分の子をもう一度自分の手で歌い直す。それは所有権を取り戻すという話ではない。一度手放したものへの向き合い方を、自分自身の中でもう一度確かめ直す、そのための静かな儀式なのだと思う。仕事も、家も、土地も、託した瞬間にすべてが終わるわけではない。むしろそこから、託した側の中で続いていく物語がある。「おもかげ -self cover-」は、その物語の続きを、そっと聴かせてくれる曲だ。今日もまた、誰かが誰かに何かを託し、そしてまた誰かがそれを引き取り直している。そういう小さな往復の積み重ねの上に、この土地の暮らしも、家族の記憶も、静かに積み上がっているのだと思う。
参考リンク
- [1] milet×Aimer×幾田りらのコラボ曲「おもかげ」明日配信決定 - 音楽ナタリー
- [2] Vaundy新作CDでmilet×Aimer×幾田りらが歌うソニーCM曲「おもかげ」セルフカバー - 音楽ナタリー
- [3] おもかげ (曲) - Wikipedia
誰かに託した曲がもう一度自分の声に戻ってくるように、家や土地にも、誰かが積み重ねた時間が残っています。
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