曲には、特定のひとりと分かちがたく結びついてしまうものがあります。私にとって山下久美子「いっぱいキスしよう」は、はじめて付き合った人の曲です。イントロが流れた瞬間に、理屈より先に、あの頃の空気が戻ってきます。待ち合わせの改札、隣を歩くときの歩幅の合わせ方、別れ際に何度も振り返ったこと。特別な事件があったわけではないのに、ひとつひとつの場面の光量だけが、妙に高いまま保存されています。はじめての恋というのは、たぶんそういうものなのだと思います。比べる対象を持たないから、すべてが等倍以上の大きさで記憶される。この曲の、ためらいを吹き切るような明るさとまっすぐさは、あの頃の気持ちの震えとそのまま同じ周波数でした。タイトルだけ見ると勢いのある曲のようですが、聴き直すと、好きだという気持ちを出し惜しみしないことの尊さを歌った曲だと分かります。出し惜しみしなかったあの頃の自分を、今はむしろ立派だったと思っています。
1993年春、テレビから流れてきた
「いっぱいキスしよう」は、1993年5月19日にリリースされた山下久美子の24枚目のシングルです。副題に(century kiss)とあり、同年のアルバム『CENTURY LOVERS』からの先行シングルでした。手がけたのは、作詞が康珍化、作曲が布袋寅泰という組み合わせ。布袋寅泰のギターを軸にしたポップな骨格の上で、山下久美子の伸びやかな声がまっすぐに飛んでいく、この時代ならではの贅沢な布陣の1曲です。
この曲は東芝グループのCMソングとしても流れていました。当時、CMは曲と出会う最大の入口でした。番組の合間に15秒だけ流れるサビを何度も浴びて、曲名も歌手も知らないまま口ずさめるようになり、あとからレコード店で正体を突き止める。そういう出会い方が普通だった時代です。「いっぱいキスしよう」も、まずテレビの中から生活に入り込んできて、気がつけば自分の記憶のBGMになっていました。
山下久美子は1980年代に「バスルームから愛をこめて」などで一世を風靡し、総立ちの久美子と呼ばれた歌い手です。その人が1990年代に入ってから放ったこの曲には、若さの勢いだけではない、大人になってからのまっすぐさがあります。ためらいや駆け引きを知った上で、それでもまっすぐを選ぶ。同じまっすぐでも、10代のそれとは違う成分でできています。
はじめて付き合った人の記憶
はじめて付き合った人のことを思い出すとき、不思議と、顔の細部よりも場面の方が濃く残っています。たとえば、雨上がりの夕方に傘を持て余しながら並んで歩いた帰り道。たとえば、映画の内容はほとんど覚えていないのに、暗がりで隣に座っているという事実だけで精一杯だった時間。会話の内容は忘れても、会話をしていたときの胸の圧力は覚えている。記憶というのは、出来事ではなく感情の方を優先して保存するようにできているのだと思います。
あの頃の自分は、気持ちの伝え方をまだ何も知りませんでした。言いすぎて後悔し、言い足りなくて後悔し、そのくり返しでした。だからこそ、この曲のような出し惜しみのなさに憧れたのだと思います。好きなら好きと、会いたいなら会いたいと、そのまま言ってしまえばいい。曲の中では簡単にできることが、現実ではあんなに難しかった。その差分ごと含めて、この曲は私の初恋の記録になっています。
その人とは、結局長くは続きませんでした。ただ、はじめての恋の役割は、続くことではなかったのだと今は思います。人を好きになるとはどういうことか、自分の気持ちひとつで一日の色が変わるとはどういうことか。それを最初に教えてくれた人がいて、その時間にこの曲が流れていた。それだけで、この曲を聴く理由としては十分です。
30年経って聴くラブソング
50代になってこの曲を聴くと、若い頃とは別の場所が響きます。それは、気持ちを表現することを面倒がらない、という曲の姿勢です。歳月を重ねると、感情の表現はどんどん省略されていきます。夫婦でも、家族でも、言わなくても分かるだろうという省略が積み重なっていく。その省略は信頼の形でもありますが、時々、省略しすぎて何も伝わっていなかったことに、あとから気づかされることもあります。
磐田で家や相続の相談を受けていると、言葉にしなかった気持ちの話に、よく行き当たります。感謝していたのに言わなかった、大事に思っていたのに伝わっていなかった。家族だからこそ省略してしまった言葉が、あとになって、ほどけない結び目として残っている。そういう場面に立ち会うたびに、気持ちは出し惜しみしない方がいい、というこの曲の単純な主張が、実はとても実践的な知恵だったのだと思い知らされます。
はじめて付き合った人は、私に感情の使い方の最初の練習をさせてくれた人でした。あれから30年以上が経ち、感情の省略ばかり上手になった今、この曲はときどき、あの頃の等倍の気持ちを思い出させに来ます。いっぱいキスしよう、と言い切ってしまえるまっすぐさ。あれは若さの特権ではなく、本当はいつでも選び直せる態度なのだと、この曲は歌っている気がします。
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