ページ作成日: 2026年7月3日
元にしたYouTubeリンク: https://www.youtube.com/watch?v=Yxep-gS-Btg
確認した動画: Yellow Magic Orchestra – "Rydeen" (Official Music Video)(ALFA MUSIC YouTube Channel公式)

大石セレクション:曲がいい ★★★★★

  • 曲がいい:★★★★★
  • MVがいい:★★★☆☆

選定理由:この曲はインストゥルメンタルのため、歌詞の評価は割愛し、曲そのものの構成とシンセサイザーサウンドを中心に評価した。Moog IIIc、コルグPS-3100、アープ・オデッセイという個性の異なる3台のシンセサイザーが、3人それぞれの持ち場から音を持ち寄るようにして重なり合い、生ドラムの揺らぎと電子音の正確さが同じ拍の上で並走する。祭囃子のような高揚感と都市的な無機質さが同居する、この曲にしかない浮遊感が、40年以上を経てもまったく古びていない。公式MVは演奏シーンとエフェクト映像を組み合わせた飾らない作りで、記録映像としての価値はあるが、曲の解釈を広げるほどの物語性は薄い。だからこそ主視点は、音そのものの強さで語れる「曲がいい」に置いた。

「Rydeen」は、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏の3人によるYellow Magic Orchestraが1980年6月21日にアルファレコードから発表した2ndシングルである。前年の「テクノポリス」に続く楽曲で、シンセサイザーが主役を張るという、当時の日本の音楽シーンではまだ珍しかった発想を、さらに押し進めた1曲だったと伝えられる。イントロから鳴る、機械が刻む鼓動のようなシーケンスフレーズは、いま聴いても古びていないと感じる。私はこの曲を、テクノという言葉すら定着していなかった時代の空気ごと覚えている。誰かの家のステレオから、誰かの車のカーラジオから、繰り返し流れていた記憶がある。当時はまだ、東京で働くようになる前で、磐田で育った少年にとって、この音は遠い都市の気配そのものだった。今回確認した映像は、YMOの楽曲を管理してきたアルファミュージックの公式チャンネルで公開されているもので、同チャンネルは細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、戸川純らのアーカイブ映像を、日本の音楽的な遺産として発信する目的で運営されている。当時は歌詞のない曲を繰り返し聴くという経験自体が新鮮で、意味を追いかけるのではなく、音の連なりだけで気持ちが持ち上がっていく感覚を、子どもながらに味わっていたように思う。この曲がどう生まれ、どう世界に届いたのかを、記憶の側からもう一度たどってみたい。

「雷電」から「ライディーン」へ ― タイトルに込められた視線

「Rydeen」の作曲者は高橋幸宏とされる。あるインタビューでは、バーで高橋が口ずさんでいた鼻歌を坂本龍一がメモに書き起こしたのが発端だったと語られている一方で、YMOの初代マネージャーだった日笠雅水は、高橋が自宅のキーボードで組み立てた旋律をスタジオに持ち込んだのが始まりだったと明かしている。細部の伝わり方はいくつかの証言で微妙に異なるが、いずれにせよ、あの跳ねるような主旋律が、スタジオの機材よりも先に、誰かの体の中から生まれていたという点は共通している。もとのタイトルは、江戸後期の伝説的な力士・雷電爲右エ門にちなんだ「雷電」で、発想の起点には、黒澤明が『スター・ウォーズ』を撮ったらどうなるか、という坂本の思いつきがあったとも伝えられる。坂本龍一は後年、この「雷電」という字面に東海道五十三次の浮世絵のようなイメージを重ねていたと語っている。浮世絵がかつて海を越えて西洋の絵画に影響を与えたように、自分たちの音楽もいつか世界に届くのではないか――そういう予感を、タイトルに滲ませていたということになる。最終的に「ライディーン」という読みに落ち着いたのは、細野晴臣が「アメリカで『勇者ライディーン』というアニメがヒットしているから、それに寄せよう」と提案したためと伝えられている。生真面目な歴史的モチーフと、いかにも軽やかな思いつきが同居しているところに、この3人のバランス感覚が表れているように感じる。間奏で聴こえる、風が抜けるような音や、跳ねるような電子音は、細野がPS-3100で、坂本がアープ・オデッセイでそれぞれ作ったとされ、楽器の選び方ひとつにも、3人がそれぞれ違う角度から音を持ち寄っていたことがうかがえる。一人の作家がすべてを設計したのではなく、3人がそれぞれの持ち場から少しずつ音を足し合わせていった結果、あの曲が立ち上がったのだと思うと、バンドという形式の面白さをあらためて感じる。誰か一人の強い意志だけで押し切るのではなく、それぞれの得意な部分を持ち寄って形にしていくというやり方は、家族や仕事の場でも案外通用する考え方ではないかと、この曲の成り立ちを知るたびに思う。

国内チャートと、静かに広がった世界への回路

「Rydeen」はオリコンのシングルチャートで最高15位を記録したと伝えられ、シングル単体としては爆発的な数字ではない。だが、この曲を収めたアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は、1979年9月の発売からおよそ1年をかけて、1980年7月14日にオリコン週間アルバムチャートで1位を獲得し、その年の年間アルバムランキングでも首位に立ったと報じられている。国内での売上は100万枚を超えたとされ、じわじわと時間をかけて広がっていった作品だったことがわかる。発売直後に一気に駆け上がったのではなく、テレビやラジオでの露出、口コミ、そして繰り返し流れる街の空気を通して、1年という時間をかけてじわじわと社会に浸透していったという経過が、この曲の広がり方の性格をよく表しているように思う。同時にYMOは、このアルバムから「Rydeen」「テクノポリス」「Behind the Mask」などを収めたアメリカ盤『×∞Multiplies』を発表し、1980年には欧米を回る大規模なワールドツアーに出ている。当時の日本のポピュラー音楽が、海外の音楽を吸収し模倣する側に立つことが多かった時代に、逆方向へ音楽が流れていったという事実は、いま振り返っても静かな驚きを伴う。一夜にして世界を制したというより、日本での圧倒的な支持を土台にしながら、少しずつ海の外に回路を伸ばしていった、という経過だったようだ。ヒットチャートの数字よりも、この曲がどれだけの時間をかけて人々の耳に定着していったかということのほうが、私にはむしろ興味深く思える。数字というのは瞬間を切り取るが、音楽が本当に根づくかどうかは、もっと長い時間軸の中でしか測れないものなのだろう。当時の日本のレコード会社や音楽産業にとって、国内のヒットだけでなく海外での流通や評価が視野に入ってくるということ自体、まだ珍しい経験だったはずで、その意味でも「Rydeen」とそれを収めたアルバムは、日本のポピュラー音楽の立ち位置を静かに押し広げた1枚だったのだと思う。

ピコピコと鼓動 ― 音として聴こえてくるもの

「Rydeen」を聴き返すと、イントロのシーケンスフレーズが、機械仕掛けの鼓動のように規則正しく刻まれ、そこにヴォコーダーを通した声や、ゲーム機を思わせる電子音が重なっていくように聴こえる。Aメロのベースラインは、単に土台を支えるだけでなく、旋律の裏側でもうひとつの歌を歌っているようにも感じられ、そこに坂本龍一の編曲の手つきが表れているのではないかと思う。当時使われたシンセサイザーは、ローランドのシステム700やアープ・オデッセイだったと伝えられ、金属的でありながらどこか滑らかな、独特の質感を生み出している。バンドサウンドが主流だった時代に、シンセサイザーを伴奏ではなく主役に据えるという発想そのものが、革命的だったのだろう。ドラムの生演奏と電子音のシーケンスが同じ拍の上で並走しているように聴こえる瞬間があり、人間の手による揺らぎと機械の正確さが、互いを打ち消し合うのではなく補い合っているようにも感じられる。それでいて、この曲には土着的というか、どこか祭囃子のような高揚感もあって、「未来の民族音楽」と評されることがあるのも頷ける。テクノロジーの音でありながら、体のどこかを揺さぶる律動を持っている。歌詞のない、あるいは言葉が前面に出てこないインストゥルメンタルの構成だからこそ、聴き手が自分の記憶や風景を自由に重ねられる余地が生まれているのかもしれない。そこが、この曲が単なる実験で終わらなかった理由のひとつではないかと、私は聴くたびに思う。「Rydeen」がこれほど長く聴き継がれている背景には、この曲がどこにも属していないような不思議な浮遊感を持っていることも大きいのではないかと思う。ロックでもフォークでもなく、かといって単なる電子音楽の実験でもない。祭囃子のような高揚と、都市的で無機質な響きが、同じフレーズの中に同居している。異質なものが無理なく共存しているという点が、聴く人それぞれの記憶の受け皿になりやすいのだろう。加えて、当時の日本の音楽シーンでは、シンセサイザーはあくまでバンドサウンドを彩る補助的な楽器として扱われることが多かったが、YMOはそこに「シンセサイザーこそが主役である」という転倒を持ち込んだのだと言われる。楽器の役割そのものをひっくり返すような発想の転換が、聴き手に新鮮な驚きを与え続けてきたのだろう。もうひとつ付け加えるなら、この曲には歌詞がなく、前面に立つ言葉がない分、時代や国境を越えて響きやすいという性質もあったのではないか。言葉の壁を持たない音楽は、意味を説明されなくても体の内側に直接届く。1980年当時、日本語という壁を越えて欧米のリスナーの耳に届いていったことの背景には、そうしたインストゥルメンタルならではの伝わりやすさもあったように思われる。

磐田に戻ってから、あの音を思い出す

東京で働いていた頃、まったく新しい発想の仕事や技術が、それまでの常識をあっさり塗り替えていく場面に、何度か立ち会ったことがある。当時は気づかなかったが、あの感覚の原型のようなものは、子どもの頃に「Rydeen」を耳にしたときの驚きに、どこかで繋がっていたのかもしれない。日本という、当時はまだ西洋の音楽を追いかける側だと思われていた場所から、シンセサイザーだけで組み立てた音楽が世界に届いていった。その事実は、地方に生まれ育った人間にも、遠い場所の常識に従うだけでなく、自分たちの持ち場から何かを発信できるのだという感覚を、静かに残してくれた気がする。子どもの耳には、雷電という力士の名前も、浮世絵への言及も、もちろん届いていなかった。ただ、あのイントロの音の連なりだけが、理由もわからないまま強く記憶に刻まれていた。大人になってから、その音の裏側にどんな経緯があったのかを知ると、当時の自分がなぜあの音に惹きつけられたのか、少しだけわかるような気がしてくる。いま磐田に戻り、家や土地や家族の相談に関わる仕事をしていると、既存のやり方にとらわれない発想の転換が、状況を大きく変える瞬間に出会うことがある。派手な事件ではなく、多くの場合は静かな積み重ねの果てに、ある日ふと風景が変わっている。空き家になった実家の相談も、相続をめぐる家族の話し合いも、最初から答えが決まっているわけではなく、じっくり時間をかけて言葉を交わす中で、ようやく次の形が見えてくることが多い。土地を手放すか残すか、家族それぞれの思いが微妙に食い違っているとき、性急に結論を急ぐよりも、少し時間をかけて互いの言葉を持ち寄るほうが、結局は納得のいく形にたどり着くことが多いと感じる。「Rydeen」が1年がかりでオリコン1位に届いたように、変化というのは案外そういう時間の流れ方をするものなのかもしれない。あの曲のイントロを思い出すとき、私は東京の記憶と、いまの磐田の日々の両方を、同じ線の上に置いて眺め直している。遠くの都市で鳴っていたはずの音が、結局はこの土地での暮らしの中にも、静かに根を張っていたのだと気づく瞬間がある。