ページ作成日: 2026年7月5日
元にしたYouTubeリンク: https://www.youtube.com/watch?v=6h6AQbdTkaE
確認した動画: mabataki / Vaundy:MUSIC VIDEO(Vaundy公式YouTubeチャンネル、菅田将暉出演)

Vaundyには「mabataki(瞬き)」という曲と、「まぶた(瞼)」という曲、似た響きを持つ2つの楽曲が存在します。前者は2022年に生まれ、後に2023年のCMやアルバムを経由して広がっていった曲で、後者はまったく別の時期・別の文脈を持つ楽曲です。同じ身体の部位や動作を連想させる言葉を、まったく違う角度から曲にしてしまう。この2曲を混同しないよう、今回はまず「mabataki」という一曲の時系列だけを丁寧に追ってみることにします。

事務所の机で契約書を並べていても、現場で境界杭を確認していても、ふと目を離した数秒の間に潮目が変わっていることがあります。会話の途中でひとことの言い回しが変わっただけで、その場の空気ごと違うものになってしまう。そういう場面を、これまで何度も経験してきました。私が磐田に戻り、家や土地の相談を受ける仕事に就いてから、そういう「瞬き一つ分」の変化に何度も立ち会ってきました。人が何かを決める瞬間は、思っているよりずっと短く、そして静かに訪れます。

今回聴き直した「mabataki」は、2022年に生まれてから、CM、応援ムービー、アルバムと、いくつもの場所を経由してきた曲です。それぞれの場面で違う役割を担いながらも、根っこにある「瞬き」というテーマだけは変わらずに保たれている。一つの曲が時間をかけて広がっていく過程を追うことは、この曲そのものが歌っている「短い時間の中の変化」というテーマと、どこか呼応しているようにも思えます。曲そのものは短くても、それが人から人へ届いていく時間は決して短くない。そのずれもまた、この曲を聴き直す上での一つの手がかりになる気がしています。今日はその感覚を通して、この曲を聴き直してみたいと思います。

大石セレクション:歌詞がいい ★★★★★

  • 曲がいい:★★★★☆
  • 歌詞がいい:★★★★★
  • MVがいい:★★★★☆

選定理由:「mabataki」の核は、サビで繰り返される問いかけの構造にある。「もし何も忘れられない世界で出会ったら」「もし何も覚えられない世界ですれ違ったら」という、記憶をめぐる二つの仮定を並べることで、人と人が理解し合えない理由を、責めるのではなく静かに問い直している[4]。目に見えない相手を攻撃してしまう社会のありようを描きながらも、説教くさくならず、あくまで「もし」の形を保ち続ける言葉選びに、この曲の一番の強さがあると感じる。曲自体もミディアムテンポで抑制の効いた良曲であり、MVも菅田将暉の抑えた芝居が印象的だが、歌詞が仮定形のまま争いと和解の可能性を同時に抱えている点は、他の2項目にはない独自の深さで、主視点はここに置いた。

武道館の夜に生まれた曲

「mabataki」は、Vaundyが2022年9月9日に日本武道館で行ったライブの中で新曲として披露され、その日のうちに配信リリースされた楽曲です。当時16作目のシングルとして送り出されたこの曲は、翌月のJ-WAVEの週間チャート「TOKIO HOT 100」で6位につけたと報じられており[1]、リリース直後から一定の支持を集めていたことがうかがえます。単独での大型公演という節目に、新曲を初披露する形でリスナーの前に置く。その振る舞いそのものに、この曲へのVaundyなりの思い入れが表れているように感じます。

大きな会場、大きな観客の数を前にして、あえて静かな曲を選んで発表する。派手な新曲ではなく、内省的な曲を武道館という舞台の中心に据えたという事実だけでも、この曲の性格を物語っているように思えます。私自身、東京で働いていた頃、大きな取引の場ほど声のトーンを落として話す人たちを見てきました。声を張り上げるよりも、静かな言葉のほうが場を動かすことがある。「mabataki」という曲が武道館の夜に生まれたという経緯は、そうした記憶とどこかで重なります。

16作目という数字にも、少し立ち止まって考えさせられます。デビューから絶え間なく曲を出し続けてきた作り手が、その延長線上でふと立ち止まり、内側に向かって問いを重ねるような曲を差し出す。ヒットの規模や話題性を追いかけるのではなく、自分の中の静かな部分を丁寧にすくい上げるような姿勢を、この曲の生まれ方から感じ取ることができます。

CMソングとして広がった2023年

「mabataki」が多くの人の耳に届くようになったのは、リリースから半年以上を経た2023年のことでした。同年3月には、神木隆之介さんと杉咲花さんが出演するサントリー「BOSS CAFFEINE」のテレビCM楽曲として起用されたと報じられています[2]。さらに同年8月17日には、NTTドコモが公開した「Vaundy×ドコモ 青春応援ムービー『青春タイムトリップ』」のテーマソングとしても使われました。このムービーは、高校時代を新型コロナウイルスの影響下で過ごした世代の大学生たちが、当時できなかった青春の一場面をやり直すという企画だったと報道されています[3]

そして同年11月15日、前作『strobo』から約3年半ぶりとなる2ndアルバム『replica』(全35曲・CD2枚組)にも収録され、「mabataki」は一つの曲でありながら、いくつもの文脈をまたいで生き続けてきたことになります。作詞・作曲・編曲はいずれもVaundy自身の手によるものです。武道館での新曲初披露から1年以上をかけて、CM、応援ムービー、アルバムという異なる文脈を渡り歩いていった曲。一つの楽曲がこれだけ長い時間をかけて広がっていく様子は、瞬間的な話題性とは違う、じわじわとした浸透の仕方だったのではないかと感じます。

『replica』というアルバム自体、Disc1に書き下ろしやタイアップ曲を、Disc2に前作以降の配信シングルを年代順に収める構成だったとされ、「mabataki」はその中間に位置する曲として置かれていたことになります[5]。全35曲という規模の作品の中で、一つひとつの曲がどんな経緯で生まれ、どこを経由してこの場所に収まったのか。そうした背景を知ってから聴き直すと、アルバムというものが単なる曲の集合ではなく、いくつもの時間が積み重なった記録のように感じられてきます。

コロナ禍で高校時代を過ごした世代に向けたメッセージソングとして選ばれたという点も、見過ごせません。取り戻せない時間があるという前提のもとで、それでも今この瞬間から何かをやり直せるという企画に、この曲が寄り添った。タイトルの「瞬き」という言葉が、単なる比喩ではなく、失われた時間をどう捉え直すかという具体的な問いと結びついていたのだと思います。

静かなストリングスと、低く抑えた声

この曲を聴くと、まず冒頭のストリングスが印象に残ります。派手に盛り上げるのではなく、静かに、しかしはっきりとした輪郭で曲の世界に入っていくような音の運びに聴こえます。テンポはミディアムで、バンドサウンド全体も落ち着いた質感を保ったまま進行し、ボーカルメロディも比較的低い音域で歌われているように感じられます。サビに向けて一気に盛り上がるというよりも、Aメロからサビまでを一つの流れのまま丁寧に運んでいくような、シンプルな構成に聴こえるのも印象的です。

ある音楽レビューでは、この曲が英雄的な物語ではなく、一人の人間の悲しみや問いかけを歌ったものだと評されており[4]、確かに聴いていると、大きな声を張り上げるのではなく、誰かにそっと語りかけるような佇まいの曲だと感じます。同じレビューは、戦場にいる人も、インターネットの中にいる人も、それぞれの場所で同じように「瞬く一瞬」を生きているという普遍性に触れているようにも読めます。特定の誰かの物語ではなく、誰にでも訪れる、ごく短い変化の瞬間を歌っている。だからこそ、CMやコロナ世代への応援ムービーなど、まったく違う文脈にもすんなりと馴染んでいったのではないかと思います。

曲の構成がシンプルであることも、このテーマと無関係ではないように思えます。技巧を凝らして聴き手を驚かせるのではなく、Aメロからサビへと素直に流れていく作りだからこそ、歌われている「瞬き」というモチーフがまっすぐ届いてくるように感じます。派手な仕掛けのない曲だからこそ、CMというごく短い尺の中でも、応援ムービーという別の物語の中でも、曲自体の輪郭を保ったまま溶け込むことができたのかもしれません。「瞬き」という、意識すらされないほど短い時間に、それでも何かが確かに変わっている——そういう感覚を、抑制された音の運びごと差し出されているような気がしてきます。

「もし忘れられないなら」「もし覚えられないなら」という歌詞の構造

この曲の歌詞に丸ごと触れることはしないが、サビで繰り返される問いかけの構造だけは見ておきたい。「もし何も忘れられない世界で出会っていたら、争わずにいられただろうか」「もし何も覚えていられない世界ですれ違っていたら、振り返って向き合えただろうか」という、記憶にまつわる二つの仮定を対にして置く構成になっていると、複数の歌詞考察記事が指摘している[6]。忘れることも、覚え続けることも、それぞれに人を分断する理由になり得る。この曲は、そのどちらか一方を良いものとして描くのではなく、両方の仮定を等しく並べることで、人と人が理解し合えない理由を裁くのではなく、静かに問い直しているように読める。

Aメロ・Bメロで描かれる情景には、目に見えない相手を攻撃してしまう社会のありようが滲んでいるとも評されている[6][7]。顔の見えない誰かに怒りを向け、考えることをやめてしまう。そうした振る舞いを名指しで責めるのではなく、「もしこうだったら」という仮定の形を保ち続けているところに、この歌詞の慎重さがある。断定せず、仮定のまま留め置くことで、聴き手それぞれが自分の経験に引き寄せて解釈できる余白が生まれている。武道館での初披露から1年以上をかけて、CMや応援ムービーというまったく異なる文脈に馴染んでいけたのも、この仮定形の強さと無関係ではないはずだ。

「瞬き」という言葉自体、まばたきの一瞬という短さと、その一瞬に何かを見失う、あるいは何かに気づくという二重の意味を同時に背負っている。忘れることと覚えていることの狭間にある、ごくわずかな時間。そこに人が変わる可能性も、すれ違ったままになる可能性も、両方が同居している。声高に答えを示すのではなく、「もし」を積み重ねながら、考え続ける姿勢そのものが世界を少しずつ照らすというメッセージを残しているように感じる。

菅田将暉が歩く、まっすぐな道

公式ミュージックビデオは、楽曲と同じ2022年9月10日に公開された。出演しているのは俳優の菅田将暉で、まっすぐに伸びる一本道を独りで歩き続けるという、極めてシンプルな構成の映像だと報じられている[8]。派手なセットや複数のロケーションを切り替えるのではなく、歩くという行為だけを見つめ続けるカメラワークは、この曲が抱える「派手さのなさ」とそのまま重なっている。表情の細かな変化、視線の向き、歩調のわずかな乱れ。そうした小さな情報だけで映像を持たせるのは、俳優の力量に多くを預ける演出でもある。

道の途中には少女の姿も差し込まれ、群衆とは逆の方向を見つめて立つ場面や、道の真ん中に座り込む場面があるとも紹介されている[8]。彼女が誰なのか、菅田将暉が演じる人物とどういう関係にあるのかは、映像の中で明確には説明されない。この説明のなさが、歌詞の「もし」の構造とよく似ている。答えを提示するのではなく、見る側に解釈を委ねる作り方は、曲の抑制されたトーンを裏切らない。

MVとしての完成度は高いが、色彩や光の演出で強く感情を揺さぶるタイプの映像ではなく、あくまで「歩く」という一つの動作を通して曲の静けさを支える役割に徹している。だからこそ映像単体の物語性というより、音と言葉が先にあって、映像がその余白を丁寧になぞっているという印象を受ける。公式MVが確かに存在し、俳優の抑えた芝居が曲の質感とよく合っている点は評価したいが、歌詞が持つ「忘却と記憶」という二重の仕掛けほどの奥行きまではさすがに描き切れていない。それが、今回の主視点を歌詞に置いた理由でもある。

東京で見た、変わり際の静けさ

東京で働いていた頃、状況が一瞬で変わる場面を何度も目にしました。会議室の空気が変わる瞬間、電話一本で計画が白紙になる瞬間。どれも、まばたきほどの短い時間の出来事でした。声を荒げる人よりも、黙って書類を閉じる人のほうが、場の流れを大きく変えることがあると知ったのも、あの頃の経験です。派手な出来事として記録されることのない、ごく静かな変わり際。それでも確かに、そこで何かが終わり、何かが始まっていました。当時は気づかないまま通り過ぎていたことも、今振り返ると、あれが「瞬き」だったのだと思えることがあります。

忙しさの中にいると、そうした一瞬の重みに気づく余裕がなくなります。次の予定、次の連絡、次の書類。目の前のことをこなすだけで一日が終わり、後から振り返ってようやく「あの日、何かが変わっていたのだ」と気づく。東京での日々は、そういう瞬間の積み重ねだったように思います。今こうして磐田で静かに働きながら「mabataki」を聴き直すと、当時は素通りしていた無数の瞬きに、あらためて目を向けさせられます。

磐田で見つめる、瞬きの間の変化

磐田に戻り、家や土地の相談を受ける仕事についてからも、似たことは変わらず起きています。相続の話し合いが一晩で方向を変えることもあれば、空き家だった実家に急に人が住み始めることもある。長らく手つかずだった土地の話が、ある日の一本の電話で急に動き出すこともあります。そのたびに、ほんの少し目を離しただけで景色が変わってしまうのだと、あらためて思い知らされます。

家族の間の話し合いも、同じです。何年も動かなかった実家の片づけが、ある一言をきっかけに一気に進み出すことがあります。逆に、順調に進んでいた話が、ちょっとした行き違いで止まってしまうこともある。どちらの場合も、変化そのものはとても短い時間の出来事で、後から振り返ってようやく「あの瞬間だった」とわかるようなものです。土地や家という、動かないはずのものを扱う仕事をしていても、実際に動いているのは、いつも人の気持ちのほうなのだと感じます。

「mabataki」というタイトルが示しているのは、そうした見落とされがちな変化への感度なのだと思います。派手な事件ではなく、ごく短い、しかし確かな移ろい。それに気づけるかどうかが、この土地で家族や家、土地と向き合ってきた自分にとって、案外大事な姿勢だったのだと、この曲を聴くたびに思い出します。

子どもの成長も、似たところがあります。毎日顔を合わせているはずなのに、ある朝ふと、少し背が伸びていたことに気づく。日々の変化はゆっくりに見えて、実際には無数の「瞬き」が積み重なった結果なのだと、この曲を聴きながら思います。土地や家を扱う仕事をしていると、つい大きな契約や大きな決断ばかりに目を向けがちですが、その手前にある、家族の間の小さなやり取りや、ふとした表情の変化にこそ、本当の答えが隠れていることが多いように感じます。

武道館の夜に静かに生まれ、CMや応援ムービーを経て多くの人に届いていった曲が、結局はどこにでもある、誰にでも訪れる一瞬を歌っていた。そのことが、遠く離れたこの土地での暮らしとも、ゆるやかにつながっているように感じています。次にこの曲を耳にするときは、きっとまた別の瞬きの記憶を思い出しているのだろうと思います。

参考リンク

瞬きほどの短い時間に、人の気持ちも景色も変わっていきます。家や土地にも、その一瞬一瞬を生きた誰かの記憶が残っています。

静岡県磐田市周辺で、相続した実家・空き家・土地建物の整理にお悩みの方は、富士ヶ丘サービスまでご相談ください。

書いた人

大石浩之。静岡県磐田市で、介護と不動産の仕事をしています。 若い頃に東京で過ごした時間、仕事の中で見てきた家族や街の記憶、 そして今暮らす磐田で感じることを、音楽をきっかけに書いています。

音楽は、過去の自分に会いに行くための入口です。 家や土地もまた、誰かの記憶が残る場所だと思っています。