以前取り上げた「mabataki(瞬き)」が、瞬間という時間の単位そのものを主題にした曲だったとすれば、この「まぶた」は、時間ではなく、閉じるという動作そのものに焦点を当てている。似た響きの言葉を持ちながら、二つの曲が見ているものはまったく違う。目を開けているあいだ、人はどうしても見た目や表情、視線の動きといった情報に頼って相手を判断してしまう。だが本当に伝わってくるものは、案外、そうした情報を遮断したときにこそ立ち上がってくる。「まぶた」は、その逆説を静かに、しかし確信を持って歌っている曲だと聴こえる。声を張り上げるでもなく、劇的な展開を用意するでもなく、閉じるという地味な動作の中に、理解の深さを見いだそうとしている。私はこの曲を、磐田の家で、夜、灯りを落としてから聴くことが多い。目を閉じていても、いや、閉じているからこそ、東京で過ごした時間や、今住んでいる土地の匂い、家族の気配が、輪郭を持って戻ってくることがある。仕事に追われていた頃は、目の前の資料や画面ばかりを見つめて、肝心なものを見落としていたのかもしれない。今こうして磐田で土地や家の相談に携わるようになり、あらためて、見ることをやめて初めて像を結ぶ記憶というものが、たしかにあるのだと感じている。それは決して特別な瞬間だけの話ではなく、日々の暮らしの中で、意識せずに繰り返している些細な仕草の中にも潜んでいるものだと思う。この文章では、「まぶた」という曲がどのように作られ、どんな作品として受け止められてきたかを確認しながら、私自身がこの曲を通して閉じてきたまぶたの記憶を、あわせて書き留めておきたい。
月9ドラマの主題歌として書き下ろされた曲
「まぶた」は、2023年1月9日に放送が始まったフジテレビ系月9ドラマ『女神の教室〜リーガル青春白書〜』(北川景子主演)の主題歌として書き下ろされた楽曲で、ドラマ初回放送後の2023年1月10日0時に配信がスタートしたとされる。Vaundyにとって初めての月9主題歌起用だった。楽曲のテーマについては、法の女神テミスが目隠しをした姿で描かれることに重ねながら、「相手を理解するために、時に目を瞑る必要がある」という考え方をVaundy自身が語っているという報道がある。テミスは、公正な裁きのために先入観となる見た目の情報を遮断する象徴として、しばしば目隠しをした姿で表される女神で、法廷を舞台にしたドラマの世界観と、「見ないことで公正に、あるいは深く理解する」という曲のテーマが重ね合わされている構図だと考えられる。曲作りについては「思いつくまでにかなり時間がかかってしまって苦戦した」とVaundyが振り返っていると伝えられている。月9という、幅広い世代が同じ時間に見ているドラマ枠の主題歌に起用されたことは、Vaundyというアーティストの音楽が、それまでのファン層を超えて茶の間にまで届く機会になったはずだ。配信開始からしばらくのあいだ、月9主題歌という露出の大きさもあって幅広い層に届いた曲だったと考えてよさそうだ。テレビの前で偶然この曲に出会い、そこから聴き込んでいったという人も少なくなかったのではないかと想像する。ドラマそのものが法科大学院を舞台にした青春群像劇であり、正しさとは何か、公正に人を見るとはどういうことかを問い直す物語だったことを踏まえると、「まぶた」というタイトルは単なる語感の良さだけで選ばれたわけではなく、物語のテーマとも深く結びついた選曲だったのだろうと感じる。
Vaundy自身が監督したMV、目を閉じることが導く二つの世界
ミュージックビデオは2023年1月17日に公開され、Vaundy自身が監督を務めていると報じられている。歌舞伎俳優の市川染五郎がミュージックビデオ初出演を果たし、女優の中島セナも出演。「登場人物たちが心を理解しあおうとして通じ合っていく様を、現実世界と心象世界の二つで描いている」構成で、ハイスピードカメラによる撮影と歌詞に連動した映像のカットが特徴とされるという。目を閉じる、あるいは瞑るという一つの身体動作が、現実の場面と、言葉にならない心の中の場面とをつなぐ蝶番として機能している構成に見える。ハイスピードカメラは、通常であれば見過ごしてしまうようなまぶたが下りる一瞬の速度や、まつ毛が揺れる細部までをすくい取る撮り方で、目を閉じるという何気ない動作そのものを、映像作品の主題にまで押し上げているように見える。楽曲自体も、ノスタルジックな旋律の下でリズムが淡々と刻まれ、感情が高ぶる箇所でも音数を絞ったまま進んでいくように聴こえる。サビに向かって音圧を積み上げていくというより、あえて余白を残したまま歌が進んでいく構成で、聴き手の記憶が入り込む隙間を意図的に作っているようにも感じられる。声を張り上げて訴えるのではなく、静かに閉じることで届けようとする曲だという印象を持つ。監督としてのVaundyが、演者の芝居がかった表情に頼らず、目を閉じる瞬間の静けさそのものを画にしようとした姿勢は、楽曲の作り方とも一致しているように思える。歌舞伎という、目の演技や見得の切り方が芸の核をなす舞台に立ち続けてきた市川染五郎を起用したことも、目を開くこと・閉じることの意味を最も体で理解している演者を選んだという点で、必然性のあるキャスティングだったように見える。
東京で覚えた、見ないほうが伝わるということ
東京で働いていた頃、打ち合わせや商談の場で、相手の表情や仕草を読み取ろうとするあまり、かえって本質を見誤ることがあった。会議室の照明の下で、資料をめくる指先や視線の逸らし方ばかりを気にしてしまい、肝心の言葉そのものを聞き逃していたのだと思う。相手の目を見て話すことが誠実さの証だと教えられてきたはずなのに、見ることに集中すればするほど、言葉の奥にある本音から遠ざかっていく感覚があった。ある時期から、あえて目を伏せて、声のトーンや間合いだけに意識を向けるようにしてみた。すると、それまで見えていなかった相手の迷いや、逆に確信の強さのようなものが、ふいに伝わってくることがあった。表情は取り繕えても、声の震えや、言葉を選ぶまでの間合いは、案外ごまかしがきかないのだと知った。見るという行為は、情報を得ているようで、実は多くを覆い隠してもいる。相手がどんな顔をしているかに気を取られている間、耳や肌で感じ取れるはずの微細な変化を、自分は取りこぼし続けていたのだろう。「まぶた」というタイトルが示しているのは、そうした逆説だと思う。目を開けたまま近づこうとするほど遠ざかるものがあり、目を閉じて初めて触れられる距離がある。この曲を聴くと、東京の会議室で覚えたその感覚が、今もそのままの温度で戻ってくる。忙しさに追われていたあの頃は、見ることをやめる余裕すら持てず、常に何かを見て、判断して、次の予定に移ることの繰り返しだった。目を閉じるという行為が、実は積極的な理解の方法でありうるのだと知ったのは、もっと後になってからのことだ。
磐田の家で、家族の気配だけを聴く時間
磐田に戻り、家や土地の相談を受ける仕事をするようになってからも、同じことを繰り返し思い知らされている。土地の権利関係や建物の状態といった目に見える情報を整理するだけでは、その家に住んできた家族が本当に望んでいることには届かない。相続や空き家の相談では特に、書類の上では見えてこない事情が、家族の中に積み重なっていることが多い。表情や言葉の端々よりも、沈黙の長さや、話がふと途切れる瞬間にこそ、その家族の本音が滲み出ることがある。誰かが目を伏せた瞬間や、あえて言葉を継がずに黙り込む間合いのほうが、資料の数字よりも雄弁にその家の事情を語っていることがある。夜、仕事を終えて家に帰り、灯りを落として目を閉じると、日中に交わした会話の中で聞き逃していたものが、遅れて浮かび上がってくることがある。相談の場では気づけなかった相手の迷いや覚悟が、目を閉じた静かな時間になって、ようやく像を結ぶことがある。だからこそ、面談を終えたあとも、すぐに次の仕事に頭を切り替えず、しばらく静かな時間を挟むようにしている。家族の気配も同じで、姿を見ているときよりも、隣の部屋から聞こえる物音や、台所の水音を目を閉じて聴いているときのほうが、その存在を近く感じることがある。子どもが部屋を歩く足音や、家族が交わす何気ない会話の断片は、目を開けて見ているだけでは意識にのぼらないほど当たり前のものだが、目を閉じて耳を澄ませると、それこそが日々の暮らしを支えている気配なのだと気づかされる。「まぶた」を聴きながら目を閉じるたび、見ることに頼りすぎていた自分の仕事の姿勢を、静かに正されている気がする。土地や建物という動かせないものを扱う仕事だからこそ、そこに関わる人の心の動きだけは、見た目の情報からではなく、耳と気配で受け止めていきたいと、この曲を聴くたびに思い直している。
閉じることでしか結ばれない像
「まぶた」がここまで広く届いた理由の一つは、月9という大きな枠組みで流れたことによる浸透力の高さもあるだろう。だが同時に、開くことよりも閉じることに価値を置いたこの曲の姿勢そのものが、聴く者の記憶の奥にある景色を静かに呼び起こす力を持っているからだとも思う。情報が絶えず流れ込んでくる時代に、あえて目を閉じることを歌にするという選択は、逆行しているようでいて、実のところ理にかなっている。画面を開けば次から次へと情報が流れ込んでくる日常の中で、目を閉じるという行為は、意識してやらなければ訪れない、数少ない余白になっている。Vaundyが監督として、法廷ドラマの世界観とテミスの目隠しというモチーフを重ねながらこの曲を映像化したことも、単なるタイアップの都合ではなく、見ることと理解することの関係を根本から問い直そうとした結果だったのではないかと想像する。公正さを求める場面でこそ、あえて見ないという選択が必要になるという逆説は、法律の世界だけでなく、人と人が向き合うあらゆる場面に通じる考え方だろう。私にとってこの曲は、東京の記憶と磐田の生活、仕事の場と家族の時間をまたいで、まぶたの裏側だけに映る景色を思い出させてくれる一曲になっている。目を開けているだけでは決して見えてこない景色が、この世界にはたしかにある。そのことを、静かに、しかし繰り返し教えてくれる曲として、これからも折に触れて目を閉じながら聴き続けることになるだろう。東京にいた頃の自分と、磐田に戻ってからの自分は、扱っている対象も、働き方も大きく変わった。それでも、目を閉じたときにだけ見えてくるものを大切にしたいという一点においては、あの頃も今も変わっていない。「まぶた」という曲は、その一点を、何度でも思い出させてくれる。次にこの曲を聴くときも、きっと目を閉じて、見えないはずの景色を探しに行くだろう。