ページ作成日: 2026年7月5日
元にしたYouTubeリンク: https://youtu.be/1FIhcdocT-k
確認した動画: 恋風邪にのせて / Vaundy:MUSIC VIDEO(Vaundy公式チャンネル)

この曲を最初に聴いたとき、懐かしいという感覚が先に来て、いつの時代の曲なのか一瞬分からなくなりました。イントロの鳴り方、音の重なり方に、どこか90年代のJ-POPを思わせる手触りがある。それでいて、声の乗せ方や言葉の切り方は間違いなく今のものです。Vaundyは制作にあたって、90年代のJ-POPサウンドをうまく現代に落とし込めないかという試みから曲を作り始めたと語っています。自分がまだ十代だった頃に鳴っていた音の記憶が、三十年近く経って、別の作り手の手で呼び戻される。そのことの不思議さを、聴くたびに考えます。もう一つ、この曲について語られているのは、恋というものを、言葉で確かめ合わなくても互いに気づいてしまうものとして描いたという点です。確認しないという選択は、不安を抱えたままでいるということでもあります。それでも確認せずにいられるのは、相手を信じているからなのか、それとも言葉にした瞬間に壊れてしまう何かを恐れているからなのか。両方なのかもしれません。自分が東京で働いていた頃も、磐田に戻って家や土地の仕事をするようになってからも、確認しないという選択をめぐる記憶が、いくつも積み重なっています。ATAWI MUSICでこの曲を取り上げるのは、懐かしいサウンドを懐かしいまま眺めるためではありません。過去の音を今に呼び戻すという営みと、確かめずに互いを察するという恋の形が、なぜ同じ一曲の中で自然に結びついているのか。その問いをめぐりながら、自分の記憶をもう一度たどってみたいと思います。

大石セレクション:歌詞がいい ★★★★★

  • 曲がいい:★★★★☆
  • 歌詞がいい:★★★★★
  • MVがいい:★★★★☆

選定理由:90年代J-POPを今の呼吸で組み直すサウンドも、成田凌と蒔田彩珠が演じる昭和ノワール調のMVも、それぞれ完成度が高い。しかし最も語りたくなるのは、「互いに確かめ合わなくても気づいてしまうのが恋なのかな」というVaundy本人の言葉に集約された歌詞のテーマだ[1]。確認しないという選択の中にある信頼と不安の両方を、恋愛の歌でありながら家族や土地との関わり方にまで敷衍して語れる余白の広さこそが、この曲の核だと感じたため、主視点を歌詞がいいに置いた。

恋愛番組のための曲が、時間をかけて育っていく

「恋風邪にのせて」は2022年3月7日に配信リリースされました[1]。ABEMAの恋愛番組「彼とオオカミちゃんには騙されない」の主題歌として書き下ろされた楽曲で、作詞・作曲・編曲・プロデュースをVaundy自身が手がけています[1]。タイアップ先が決まっている楽曲というのは、番組の空気に寄り添う分、作り手の個性が薄まってしまうこともあります。けれどこの曲は、番組の枠を離れても独立して聴かれ続けているという点で、書き下ろしという成り立ちを感じさせません。恋愛番組という枠組みは、出演者たちの感情のやり取りを視聴者に見せることで成り立っています。その一方でこの曲が描くのは、見せるための感情ではなく、確認せずに互いを察するという、番組の外側にある静かな恋の形です。タイアップという役割を引き受けながら、番組そのものが扱う恋愛観とは少し違う角度から恋を描いているところに、この曲の奥行きを感じます。Billboard JAPANのHot 100では週間14位、年間では87位を記録し、ダウンロードソングスでは週間10位まで上がったと報じられています[2]。派手な初動というより、じわじわと聴かれる範囲が広がっていったタイプの曲だったようです。Billboard JAPANによれば、ストリーミング累計再生数はまず1億回を突破し、自身8曲目の到達となったとされ[2]、その後2025年1月には2億回を超えたことも報じられています[6]。番組のために書かれた曲が、番組が終わったあとも独り歩きしながら聴かれ続けている。曲の寿命は、生まれた理由の大きさとは関係がないのだと、この曲の軌跡を見ていると感じます。

三十年前の音を、今の呼吸で鳴らす

Vaundyが語る90年代J-POPへのオマージュという視点は、単なる懐古ではないように聴こえます。当時の音作りの様式をそのまま持ち込むのではなく、いったん自分の中に取り込んでから、今の感覚で組み直しているように聴こえるのです。メロディの動かし方も、普段のVaundyの作風とは少し違う手触りがあると本人も語っています。結果として生まれた音は、懐かしさと新しさのどちらか一方に寄りかからず、その中間を漂っている印象を受けます。過去の様式を掘り起こして今に接続するというアプローチは、このサイトで取り上げてきたサカナクションの「新宝島」「忘れられないの」とも通じる部分があります。世代の違う作り手たちが、それぞれ別の時代の音を呼び戻しながら、今の音楽を作り続けている。過去は消費されて終わるものではなく、繰り返し掘り返される資源のようなものなのかもしれません。90年代に十代を過ごした自分の世代からすると、当時の音の鳴り方には、今より少し不器用で、少し余白の多い印象があります。その余白を、Vaundyが今の技術と感覚で丁寧に埋め直しているように聴こえる瞬間があり、それがこの曲を聴くたびに懐かしさと発見の両方をもたらしてくれる理由なのだと思います。

当時の自分にとって、ラジオやテレビから流れてくる音楽は、今のようにいつでも選んで聴けるものではありませんでした。偶然流れてきた一曲を、たまたま覚えている。そういう受け身の出会い方をした音が、記憶の中で妙に鮮明に残っています。「恋風邪にのせて」を聴いていると、そうした受け身の記憶がふいに立ち上がってくる瞬間があります。狙って作られたはずの懐かしさのはずなのに、こちらの記憶の方が先に反応してしまう。作り手が仕掛けた懐古と、聴き手が持ち込んでしまう懐古が、曲の中でどちらのものともつかないまま混ざり合っているように感じられます。90年代を知らない世代がこの曲を聴けば、また違う響き方をするのだろうと思います。同じ音を聴いても、そこに何を重ねるかは、聴き手が背負ってきた時間の長さによって変わってくる。この曲がいろいろな世代に届いているのだとすれば、それはサウンドの再構築という試みが、特定の世代の記憶だけに閉じずに済む余地を残しているからなのかもしれません。当時十代だった自分の耳には、今のポップスに比べて、もう少し音数が少なく、もう少し間の取り方がゆったりしていたという印象が残っています。忙しなく詰め込まれた音の中で育った今の世代の耳に、その間の取り方がどう響くのかは分かりません。それでも、Vaundyが今の技術を使いながらあえてその間を残しているように聴こえる瞬間があり、そこにこの曲の丁寧さを感じます。

「くだらない愛」を昭和ノワール調で撮ったMV

ミュージックビデオは2022年3月12日に公開され、監督を丸山健志が務め、俳優の成田凌と蒔田彩珠が出演しています[3][5]。丸山監督はこの映像のテーマを「くだらない愛」と位置づけ、「デタラメな男とその男に振り回される女のお話」として物語化したと語っています[4]。演出のトーンとしては、昭和ノワール的な湿った空気を漂わせながら、成田と蒔田という現代的な二人の表現力でそれを更新するという、時代の対比を意図した作りになっているようです[4]。蒔田彩珠は、この曲について「口ずさみたくなるような素敵なメロディーと歌詞」と述べ、撮影中は曲を思い浮かべながら歌い、演じたとコメントしています[3]。歌詞が描く「確認せずに互いを察する」という関係性を、MVでは逆に「確認しないまま振り回される」という、少し危うい方向に振り切って見せているのが興味深いところです。曲そのものが持つ健全な信頼の余白と、MVが見せる不健全な依存の危うさ。この二つが同じ曲の中で両立しているからこそ、聴くたびに、見るたびに、印象が少しずつ違って感じられるのだと思います。映像の質感は、原色を避けた落ち着いた色調で統一されており、昭和の恋愛映画的なフレーミングを意識しているように見えます。曲が持つノスタルジックなサウンドと、映像が持つノスタルジックな画作りが呼応していて、音と映像がそれぞれ別の時代を参照しながらも、同じ「くだらない愛」というテーマの下でしっかり結びついている。公式MVがあることで、この曲の輪郭がより立体的になっているのは間違いありません。ただ、歌詞そのものが持つ余白の広さ、恋愛以外の関係にも敷衍できる普遍性と比べると、MVはあくまで一つの物語の解釈を提示するものであり、そこがこの曲の主視点を歌詞に置いた理由でもあります。

確認しないまま、東京で過ごした時間

東京で働いていた頃、言葉にして確認することを避けていた関係が、いくつかありました。仕事の付き合いの延長で親しくなった相手との距離感、はっきりさせないままにしていた気持ち。確認すれば楽になる部分もあったはずですが、確認しないことで保たれている均衡もありました。忙しさに紛れて、あえて踏み込まずにいたのだと、今になって思います。恋を病に例えるという発想も、この曲の面白さの一つです。風邪のように、いつの間にか体の中に入り込み、簡単には抜けない。抜けたと思っても、ふとした拍子にぶり返す。東京での日々の中で、そういう感覚を覚えたことが何度かありました。忙しい毎日の中で、確認する時間も、確認される勇気も、なかなか持てなかった。今振り返ると、それは臆病だったからというより、確認しないことそのものが、当時の自分たちなりの距離の取り方だったようにも思えます。

あの頃、仕事の合間に交わす短い会話や、帰り際の何気ない一言の中に、言葉にされない意味が込められていることがよくありました。忙しさを言い訳にして、深く踏み込まずに済ませてしまう。それは楽なことでもあり、同時にどこかもどかしいことでもありました。相手の本音を確かめる勇気が持てなかったのか、それとも確かめないことで関係の柔らかさを保とうとしていたのか、当時の自分にははっきり分かっていなかったように思います。忙しい東京の時間の中では、立ち止まって確認する余裕そのものが、贅沢なものだったのかもしれません。今になって振り返ると、確認しないまま流れていった時間の中にも、確かに存在した気持ちがあったはずです。それを言葉にできなかったことを後悔しているわけではありません。ただ、確認しないという選択が、当時の自分にとって精一杯の誠実さだったのだと、今なら少し分かる気がします。恋を風邪にたとえるという発想も、確認しないままでいることの心地よさと苦しさの両方を、うまく言い当てているように思えてなりません。

磐田で、確認せずに続いてきた家族の時間

磐田に戻り、家や土地の相談を受ける仕事をするようになってから、確認しないという選択の重みを、以前とは違う形で意識するようになりました。親から子へ、あるいは夫婦の間で、はっきり言葉にされないまま何十年も続いてきた気持ちに出会うことがよくあります。なぜこの家を手放さずにきたのか、なぜこの土地にこだわるのか。本人に尋ねても、明確な答えが返ってこないことが多いのです。それでも、確認されないまま積み重ねられてきた時間には、確かな重さがあります。家族という関係は、恋愛のように毎日言葉を交わし続けるものではありません。むしろ、言葉にしないことで保たれてきた部分の方が大きいのかもしれません。「恋風邪にのせて」が描く、確認せずに互いを察するという恋の形は、恋愛だけの話ではなく、家族や土地との関わり方にも重なって聴こえてきます。空き家の整理をしていて、なぜこれが残されていたのか分からない物に出会うたび、確認されなかった誰かの気持ちを想像します。答えのないまま残されたものを前にして、それでも大切に扱おうとすること。90年代の音を今の感覚で鳴らし直すこの曲のように、確認されなかった気持ちも、時間を経て別の形で受け継がれていくものなのかもしれません。

家族の相談を受けていると、確認しなかったことを悔やんでいる人と、確認しなかったことに救われている人の、両方に出会います。生きているうちに聞いておけばよかったという後悔は、誰の話を聞いていても共通して耳にする言葉です。それでも、確認しなかったからこそ、その人の中でその人らしい理由が保たれたままでいられた、という場合もあるのだと思います。土地や家に対する思いは、言葉にした瞬間に説明を求められ、説明できない部分は不合理として切り捨てられがちです。けれど、確認せずに残されたままの気持ちには、説明を必要としない強さがあります。仕事として家族の話を聞く立場にいると、すべてを言語化することが必ずしも良いことばかりではないと感じる場面が増えました。確認しないという選択を、ただの逃げではなく、相手への信頼の形として受け止めること。「恋風邪にのせて」を聴くたびに、その姿勢を仕事の中でも大切にしたいと、静かに思い直しています。

90年代の音を今の感覚で鳴らし直すという営みと、確認せずに互いを察するという恋の形は、どちらも同じことを教えてくれているように思います。過去のものを、そのままの形で保存するのではなく、今の自分の呼吸に合わせて少しずつ組み直しながら、次の世代へ渡していく。家や土地を引き継ぐという仕事も、本質的には同じ作業なのかもしれません。確認できなかった気持ちをそのまま抱えて終わらせるのではなく、今の自分の言葉で、もう一度形にし直してみること。この曲がリリースから時間を経てなお聴かれ続け、再生数を伸ばし続けているのも、そうした組み直しに耐えるだけの強さを、最初から持っていたからではないかと思います。磐田で家族の記憶に向き合う仕事をしながら、東京で確認せずに過ごした時間を思い出し、さらにその奥にある90年代の記憶にまでたどり着く。一曲の音楽が、自分の中でこれほど遠くまで連れて行ってくれることに、あらためて驚かされます。

参考リンク

確認せずに互いを察するように、家や土地にも、言葉にされないまま積み重ねられた誰かの想いが残っています。

静岡県磐田市周辺で、相続した実家・空き家・土地建物の整理にお悩みの方は、富士ヶ丘サービスまでご相談ください。

書いた人

大石浩之。静岡県磐田市で、介護と不動産の仕事をしています。 若い頃に東京で過ごした時間、仕事の中で見てきた家族や街の記憶、 そして今暮らす磐田で感じることを、音楽をきっかけに書いています。

音楽は、過去の自分に会いに行くための入口です。 家や土地もまた、誰かの記憶が残る場所だと思っています。